釣りの功罪2 食べる魚を釣る釣り

 ややこしくなるのであえて先の記事とは分けて、食べる魚を釣る釣りの事について少しばかり書きたいと思います。私自身は食べる魚を釣る釣りはあまり罪悪感を感じないと書きましたが、釣りをしない人にとってはこれも批判の対象になり得ると思いますし、私自身何ら問題が無いとも思ってはいません。よほどの菜食主義者でも無い限り、どんな人でも魚を食べるわけですから、釣り人にしてみれば、スーパーで買った魚だって誰かが釣ったり網ですくったものなのだから同じだということになり、何が問題なのだと思う人も多い事でしょう。しかし少し考えてみれば、もしも一人ひとりが自分の食べる魚を釣りに行っていたら、なんと非効率な「漁業」となっているでしょう。各自が好きな釣り場へ行き、僅かの魚しか釣れないのに多くのガソリンの浪費と食物とネガカリと外道の死と釣り場の荒廃をもたらすことになります。近代漁業にも多くの問題がありますが、単純に自然負荷だけを見れば、プロが効率良く捕獲したスーパーの魚に頼らせて頂く方が賢明の様に思います。

 釣った魚は食べるからいい、というのは、釣りをしない人からすれば単なる自己満足のいい訳に聞こえるかもしれません。それならスーパーで買えば、ということになる。けれど、釣り人は、そうじゃあないんだと言う。何が、違うのか。結局、自分の楽しみのために釣りがあって、食べるのは、副産物でしかないことが殆どなのです。だからこその、「遊漁」なのだと思います。

 多くの賢明な釣り人の方は、食べるから全てが許される、全てが肯定されると言う思考はされていないと思います。現代の釣りは、例え釣った魚を食べたとしても、単純に食糧捕獲の釣りや漁とは性格が異なります。かかる自然負荷も違う。だからこそ、釣った魚を食べようが、食べまいが、結局のところ、釣りという行為の原罪については認識せざるを得ないと言うことなのだと思います。これは決して卑屈になれとか釣りは悪だと言うことではもちろんなく、これを認識すると言うことが全ての始まりだと思うのです。結局は、人間は自然の支配下にあって、決してその逆ではなく、踊っているのは自然ではなく、踊らされているのが人間です。釣りは確かに自然や魚を傷つける、そのことに釣り人は悩み、後悔もする、それでも、釣りをする人はつまるところ、自然が好きで魚が好き、やっぱり魚の顔を見たいのです。スーパーでぶつ切りになった死んだ魚ではなく、大自然の中で生き生きとした黒い目の魚の顔を。だからこそ、今日も釣り場に向かうのではないでしょうか。少しばかりの罪悪感と、大きな希望と期待を持ちながら。

 

                                                                                 文責:M