美を競う

美を競うことは、果たしてできるのだろうか。

 

絵画や写真で、どれが優秀賞だの、どれが凡作だの、ランク付けされることがある。

私が信じるところによれば、芸術とは主観であり、競技的側面の本来的に欠けるものだということは多くの方の賛同を頂けると確信する。

しかしながら、マジョリティの主観さえつかめば、案外、芸術にも「攻略法」があり、無理やりながらではあるが競技を創造することも可能であるのではないかと考えている。

 

たとえば人間の顔にも黄金比や一定の法則により、いわゆる美人顔を想定することは容易い。

そこには、生物学的、あるいは進化心理学的な美の指向性が多くの人間には備わっているからで、ここを攻略すればある程度の美を規定することができる。

 

ただ、ここで一つの壁にぶち当たるのは、こういった生物学、あるいは、心理学的な側面からの美への攻略は、「美」と「駄作」を分別することはできても、「美」の中でのランク付けをすることまではなかなかできないということである。

 

人間の顔で話を進めると、いわゆる美人にも数パターンあって、東洋的な美人、インド・ヨーロッパ系の美人、黒人系の美人など、大まかに分けても人種的にカテゴライズできるし、同じ日本人でも、「カワイイ」系や「カッコイイ」ハンサムウーマンなど、これまたいくつものパターンがあるのである。

 

例えば俗な言い方をすれば綾瀬はるかも長澤まさみも美人の類だと認める人は相当数いるだろう、しかし、両者とも自分の好みだと言う人はかなり減るのではないか。即ち、「美」ではあるが、「好みの」美ではないという「美」が、存在することが「美」のランク付けを困難にしている。

 

話を芸術に戻そう。

絵画や写真も同じことで、「確かに綺麗な絵ではあるが・・・」という、「好みではない美人」の類が必ず存在する。これの排除ができれば、芸術のランク付けは格段にやりやすくなる。しかし、これは相当困難を極める。美という上位層の中でのランク付け、トップの決定論は想像以上に難解だ。

 

攻略の方法は2つに絞られる。

ひとつは、極めて最大公約数的なモノを目指し、できるだけ多くの人に受け入れられる「国民的女優」的な方向性をとること。

芸術、美の分野において、もし勝敗を決める基準があるとすればそれは支持者の数であろうから、この方向性は正攻法である。

 

一方で、こういった最大公約数的なモノは突出した特徴にかけるため、熱狂的支持者を作りにくいという難点がある。

さらに言えば、とみに芸術の分野では、「他者と違う」ことが一種のステータス的効果を生むことがあり、あまりに人気が普及するとコアな支持者が逃げていくとう現象がみられる。

 

これについては、いろいろな考え方ができると思うが、美への指向性を、自然淘汰的ではなく、性選択的と考えると少し理解の道が開けるのではないかと考える。

 

即ち、美への指向とは、やはり性選択がベースとなっており、性選択は、平均点以下を切り捨てる自然淘汰とは異なり、トップ層から摘み取っていくシステムが基本であるからだ。(これについては正統的な進化生物学に通じる人からは批判を受けるかもしれない。)

 

美を選ぶとき、あくまでトップを探そうとするが故、万人に知れ渡り平凡化した「国民的女優」は、トップに相当する魅力を減じるのかもしれない。

 

もちろん、逆の発想で、万人の好みに合い、万人との競争に勝たなければ手に入れられない「国民的女優」を追及することは非効率的であり、防衛反応として魅力を感じにくくなるという考え方もできる。

 

何はともあれ、「国民的女優」作戦は、ともすれば上位層ながらもその中の平均点どまりの結果を作りかねないというポイントがあるということだ。

 

一方、万人への訴求はあきらめ、一定の特徴を保つことにより一定のグループへの熱烈な訴求を目指す方向性もあろう。

一部のインディーズバンドが熱烈なファンを持つように、万人受けこそしないが、必要十分な数の支持者、しかも熱烈なそれを得ることを目指すならば、平凡化しないような特徴を持ち続けることだ。

 

ただし、あまり特殊な特徴に走り過ぎると、今度は必要充分な支持者の数を集められなくなる。また、そもそも「美」の基準から外れて「駄作」に転落する可能性もある。

 

この作戦で行く場合、最低限の「美」の基準は守りつつ、「遊び」を入れることで平均化された「美」とは一線を画することだ。

 

しかし、これら最大公約数セオリーもコアファン確立セオリーも、根本的な問題を解決しているわけではない。即ち、これら攻略法で上位群に入ることはできても、ナンバーワンになることを保証することはいずれの手法でも不可能である。

 

ところで、美を競うとき、その勝利とは、できるだけ多くの人ができるだけ熱心なファンになる、ということだろう。

 

そして、前回にも書いたが、美とされるにはある程度万人に共通な美感覚に通じている必要がある。独りよがりの美的感覚は、ただの駄作にしか帰結しないのである。

 

つまり、最大公約数セオリーでもおなじみだが、美を競うとき、できるだけ万人に共通の美感覚に訴える作品をつくる必要があるのだ。

 

しかし、ここでひとつのパラドックスが生じる。

 

万人に理解され、万人にとって美しいとされる美を作る時、その美を万人が作り出す可能性があるということだ。

 

分かりにくいだろうか?

 

絵画を例にとろう。

 

夕焼けの絵は誰もが美しいと感じるだろう。いわば、万人に理解される美である。そして、万人がそれを知っている。

 

だから、万人に、「絵描きとして、きれいな風景画を描いてください」と言えば、結構な確率で夕焼けの絵を描くことだろう。

 

他にも、花畑、清流、海、などなど、万人が認める美的風景は大体決まっている。そして、万人が認めないと美ではないが故、美を作る時、どうしても万人が認めるこれら美的風景が選ばれる。

 

もしも万人が同等の絵の技術を持っていたら、それでは万人が良い絵描きとなってしまう。

 

そんなことはない、技術が同等はありえない、だから万人が良い絵描きにはなれない、と言われそうだが、正直な話、技術という点で上手い者は実際腐るほどいる。写実なら、アマでもすごいのは山ほどいるし、音楽の世界でも、歌唱力だけでいえばプロ以上の者はライブハウスでも行けば腐るほどいる。(プロなのにひどい者が多いのも事実だが)

 

それでもプロとアマの差があるのは、何なのか?

 

それは・・・

 

「夕焼け、花畑、清流、海・・・しかし、良く見れば都会のビル群も見方によっては綺麗じゃないか!これを描こう!」

 

こういう発想力でしかないのではないか?

 

例として着眼の発想を挙げたが、これは構図や色や視点などでも勿論構わない。

 

しかし、これは実に危うい、綱渡り的な差である。

なぜなら、ビル群だって見ようによっては綺麗であるということは万人もまた気づきにくいだけで知っているのであり(逆に知って、言いかえれば認知されていなければ、そもそもビル群の絵が駄作とみなされるだろう)、いつ気づいてもおかしくないからだ。

 

しかし芸術家は、この綱渡りをせざるを得ない。

 

「そうだ、この泥土も綺麗じゃないか!」といくら叫んだところで、万人が認めない以上それはただの戯言だからだ。

 

芸術家が芸術家であるためには、技術がうまいのはもちろんのこと、常に万人に知られているのだけれど、しかし気づきにくい「美」を、いつも探し続けなければならないのである。その「美」は、万人が知るが故にいつ他人が発掘してもおかしくない。でもその前になんとしてでも自分が発掘する、芸術家は、実は永遠のレーサーなのだ。


そしてその危うい競争の上に、微妙な偶然と必然が重なり、トップが決まっている。

 

トップを決めるセオリーは、おそらくないだろうし、少なくとも、私は知らない。

ただ一つ言えることは、トップになれば、芸術家は美の「創造者」にもなれるということだ。自身の豊かな賞歴と背景を源泉に、誰もが、いや、実は自身でも「どうかな?」と思っている対象を絶賛し、これに注力することで、これが「美」なのだという規範を作り上げる…どこの世界でも、レースに参加しているうちはひよっ子、レースを運営する側になって初めて「トップ」なのである。