現代と古

よく聞かれる話として、現代の人間は熾烈な生存競争からは縁遠くなったというものがある。経済的格差などは以前存在しつつも、我々は猛獣に襲われる危険を感じることはともすれば一生ないこともあろうし、感染症に罹ったところで容易に逝くことはなくなった。

 

平均寿命は飛躍的に延び、それに伴いさまざまな社会問題は発生しているものの、こと、サバイバルとしての命の保持だけに着眼した場合、原始時代から文明社会への遷移はまさに地獄から天国とも言うべきものであったことだろう。

 

同時によく聞かれる話として、現代は精神的弱肉強食時代であるというものがある。

 

確かに肉体的には、現代は原始時代に比して格段に「楽な」世界となった。

 

しかし、精神的には、複雑に入り組んだ人間関係、原始時代とは比べ物にならないほどの数の相手との交際、折衝などにより、精神的ストレスは格段に増大したという論説である。

 

かつてジャン・ジャック・ルソーは、自らの著書の中に、原始生活を送っているものの中で自殺をしたものを知らない、それに比べて現代は・・・という嘆きを、既に記している。

 

農耕の発展による人口増大とともに始まる文明の台頭は、人間の社会化という人類史上未踏の領域へと我々が足を踏み入れるきっかけとなった。

それは、かつて小集団による独立的な生活を営んでいたと見られる我々の先祖からしてみれば、ある意味無謀な挑戦であったのかもしれない。

 

肉体的には天国であるという論と、精神的には地獄であるという論は、それぞれ説得性を有しているように見えるが、果たして本当にそうなのだろうか。

 

 

 

そもそも、かつての我々、あるいは、他の野生生物と、現代人では、生存競争ひとつとってみても、その捉え方が大きく異なるであろう事に留意したい。


先に私は、現代人の捉え方として、現代を肉体的には楽だが、精神的には苦痛であるというものを取り上げた。これを少し掘り下げて詳述すれば、現代は、自身の延命には適し、日々受ける精神的苦痛の観点で言えば地獄であるということだ。

 

比して、かつての原始時代では、自身の延命には不利であり、日々の精神的苦痛はより緩和なものであったということである。

そして、自身の延命を、肉体的な生存競争における勝利、成功と近似に捉えている。

 

一方で、かつての我々や野生生物は、自らの置かれた環境をこのように肉体・精神の2局面から2分していたかどうかは怪しい。彼らの最終目標は、(進化)生物学的な論点に立ちながらお決まりの擬人化を用いれば、自己遺伝子の複製をできるだけ多く、できるだけ長く存在させることに他ならないことは、明白であろう。

 

であるとすれば、ある人がたとえ100歳まで生きたところで、一人も子供を作らなければ、この観点で言えばこの人の人生は失敗であったということになる。


我々の先祖が、他の野生生物と同様、悪戦苦闘していた肉体的な生存競争も、その最終目標は自身が単に長生きすることではなかったはずだ。もちろん、長生きすれば子作りの機会が増えるという意味で、間接的に長生きは最終目標に貢献するが、あくまでその最終目標とは、自身の子供を一人でも多く作ることであったはずだ。


我々が肉体的な生存競争と聞くと、自身の身の危険を守ることを第一義的に考えがちだが、(進化)生物学的に言えば、単に自身の身を守るだけでは生存競争に打ち勝ったとはいえない。自身の健康な体を以ってして、多くの子供を作ってこそ、はじめて目標を達したといえるのである。


彼らのシンプルな最終目標を鑑みれば、そこに肉体と精神の区分など存在しないことになる。もちろん、肉体的に不健康な状態で多くの子孫は望めないだろう。一方で、極端なストレス状態に於いても同様のことが予想される。

 

故に、彼らの「生存競争」には、肉体も精神も全て包含された上での、子孫繁栄という最終目標があるだけの、極めてシンプルなものであるといえる。


それが、現代では、できるだけ多くの子供を・・・という、本来生得的であるはずの観念が抜けがちな人間が多いため、肉体的な生存競争と聞くと、ついつい単純に自身の身を守ることだけに目がいきがちである。20代で5人の子を産み夭折した人と、100まで生きながら子供に恵まれなかった人、2人を比してどちらが「肉体的に」「成功」したかと問われれば、原始人は前者、現代人は後者を選ぶといった分岐が生まれる可能性は十分にある。


なぜ生物のcommon senseといえる最終目標が抜け落ちがちなのかはまた別の話として、異端となった現代の我々は、もはやかつての我々と、あるいは他の野生生物とパラダイムそのものが根本的に異なってしまっているといえる。


もちろん多くの場合一定の子孫は残すがその最大化を必ずしも欲しない現代人にとって、その関心事は自身の健康な延命と日々の精神的安定という2大柱となった。

 

比して子孫の最大化を唯一の最終目標としっかり植えつけられたかつての我々及び野生生物は、自身の延命そのものや日々の苦痛を、あくまでその最終目標への間接的なファクターとしてしか捉えないだろう。


かつてと目標が異なる中で、かつてと現代の比較はもはや正確性に疑問符が付くものとなる。ある現代人が肉体的には苦痛が多く精神的には楽が多いと見なす古の時代にタイムスリップしたとして、其の思考回路が現代人のままなのかそれすらも古のものに回帰するのかによって、全く感じ方は変わってくるだろう。逆に古の先祖が現代にやってきたとしても、同じことが言える。


現代人からしてみれば地獄のような、平均寿命は短く老成期には多大なストレスを受ける環境でも、それが繁殖期まで安全で多くの子孫を作ることができる環境であれば、古の先祖たちには天国のように映ったかもしれない。逆に現代人は現代を肉体的には「楽な」時代だとみなしがちであるが、自身の延命そのものが最終目標ではない古の先祖たちはそこに価値を見出すことは難しいかもしれない。


精神的ストレスというのも、大きくパラダイムが異なる以上、その定義そのものが古と現代では大きく乖離している可能性が高い。となると、もはや純粋な比較などできず、結局冒頭のような我々がしがちな推測は妄想でしかないということになる。


現代がどういう時代なのか、その定義は現代の我々のみがすればいいし、結局、我々にしかできない。古の時代もまた、同じである。