限られた、匂い

視覚情報化社会といわれて久しい。同時に、音響機器も発展を遂げ、携帯音楽機器や携帯電話等の発展を見れば、聴覚情報化も相当に進んでいるといって差し支えなかろう。

 

では、残りは、どうだろうか。


人の五感のうち、多くの人が其の喪失を恐れるのは視覚、聴覚であろう。残された存在として味覚、触覚、そして嗅覚が挙げられる。

 

味覚はいささか特殊な感覚である。本来的には食物の化学的な性質検査の役割を担っていたであろう此の感覚は、根本的に其の発動時期が限られている。即ち、摂食時のみである。


触覚、これもまたある意味で特殊なものである。その他4つの感覚器は非常に限られた範囲に存在しているが、触覚に関しては殆ど全身が感覚器である。あまりにも根本的であるが故に、さしたる着目を受けにくい側面もあろう。情報を得る感覚としてみれば、この触覚は至極至近距離のもののみにしか適用されないという意味で、限定的な側面もある。そういう意味では、味覚も同じであり、この両者は、情報探知機としては近距離型と言える。


そして、嗅覚である。この感覚は非常に面白いものである。

 

視覚や聴覚と同様に、嗅覚は遠方の情報も伝達できる。発動時期も止むことなくエンドレスである。生存上は化学物質の探知を主目的としており、そういう意味では味覚と相互補助関係にある。(事実、嗅覚の損傷は味覚の損傷に繋がる。)なかなか、重要な役割を担っているのである。


しかし現代人は、嗅覚に頼って何かするということは殆どない。

 

異臭の探知も、現代社会に於いては高度な警報機が代行してくれるだろうし、排気ガスくさい此の社会ではむしろ迷惑な存在とすら感じる人もいるかもしれない。

 

一部にアロマセラピーなど嗅覚重視の動きもあるが、決してメジャーであるとは言いがたい。


ところが、この非常に役割が縮小化されて限られていった嗅覚が、思いがけずに力を発揮することがある。それは、ふとした馴染みの地に触れた際の、いわば郷愁のスイッチの役割を果たすのである。


長らく離れていた場所を訪れた際、しばしば目にする景色は様変わりし、町に流れる喧騒のリズムも変貌している。しかし、なんとも表現が難しい(匂いほど表現の難しい感覚を私は知らない)匂いは、確かにその土地に染み付いていて、それはしばしば懐かしのそれとなんら変わっていないのである。


あの、土地特有の匂いは何なのだろう。その地の植物の匂い、川面の匂い、あるいは工場の匂い、地に住む人の生活の匂い、様々な要素が混ざり合って独特の匂いを形成しているのだろう。それは普段、離れているときには思い出そうとしても思い出せない(匂いとは想起が非常に難しいと思う)、しかし一度嗅げばすぐさま「ああ、此の匂い」と合点する匂い。この力は、いささか強力すぎて、時に視覚や聴覚などの情報手段など忘れ去られるほどにあらゆるその地での想い出を引っ張り出してくれる。


これは、人にも当てはめることが出来よう。論を待たずして、人にはそれぞれ固有の匂いがある。体臭というとあまりに品がないし、マイナスイメージが先行するのでここでは敢えて使わない。ここでいう人に匂いとは、決して不快なものではなく、その人を想起させる、よきトリガーとしてのものである。


久しぶりに会う友に、昔と変わらぬ匂いを以ってしてその懐かしみを大きくした人も多かろう。ここでも、人は経年によりあらゆる変化を遂げるが、匂いだけは、かつてのそれであることが多いような気がする。もっとも、その人に伴侶が出来た暁などは、いささか匂いも新調されるのかもしれないが。


動物の世界でもマーキングなどは匂いを通して行われる。各人に固有の匂いがあり、そのそれぞれに懐かしみを覚えるのは、ある意味自然なものなのかもしれない。いくら仮装して、変声を遂げたところで、匂いを隠すのは案外難しい。匂いは、その信頼性からも、あらゆる過去の同定に使われるのかもしれない。


匂いは確かに得られる情報量は限られているし、その射程範囲も限定的である。しかし、限られているが故に、よりいっそうの力を発揮する場面があるようだ。視覚や聴覚は、我々が普段よく使用し、いわば使い慣れた道具である。そんな中で、珍しく嗅覚が懐かしの匂いを伝達したとき、人は、より大きく心を揺さぶられるのかもしれない。


限られたが故の、希少性の持つチカラであろうか。