意識が作り出す

比較的旧来からある議論として、モノはモノとして最初からありきなのか、それとも我々の主観がモノをモノとして作り上げているのかという話がある。哲学では重要なテーマにもなっているらしい。


水槽の中の脳という仮想があるように、原理上は、我々が知覚する全てのモノは脳に適切な電気信号さえ送ることが出来れば、実体なくそれを知覚させることは出来る。もしかしたら、この世など存在せず、全ては水槽に浮かべられた我々の脳の幻想である可能性も無きにしも非ず、ということである。


少し話が飛んで大袈裟になったが、もっとミクロな部分でも、我々の意識は確かに、本当ならばないかもしれないモノを作り上げているケースがある。


肩こりというものがある。これは日本独特のものらしい。そう言うと、まるで日本人のみに肩こりという症状が存在するのか、やはり日本人はなで肩で肩が弱いのか、などと勘ぐる人も居るだろうが、むしろ事実はそれとは異なる。


勿論、異国の人々も首や肩の緊張感を感じたり、違和感を覚えたりすることはある。しかし、それを一つの症状として、特定するネーミングを持たないのである。表現する言葉がないと、人は不思議なもので、それはそのモノをさして知覚しないようになる。あるいは、さして知覚しないからネーミングがなされないということもいえるのであるが、とにかく、言葉によるネーミングと、それに伴う意識が、そのモノの存在感を高める、いや、もっと言えば、そのモノの存在に係る必要条件を握っている側面があるのである。


肩こりに話を戻すと、文化的に、異国ではその、肩や首の緊張感や違和感を覚えることがあっても、それに相当するネームがない故に、大した事として捉えられていないか、あるいは、大した事と捉えられていないから、ネーミングがなされないでいるということである。実際には両方の相乗効果があるのだと思う。


似たような例として、フランスの重い足というものがある。足が重くだるいという症状は確かに我々も経験することはあるが、日常会話で頻繁に口にするほどそれを意識もしないし、肩こりのように端的にそれを表す言葉もない。そして、それを治療する市販薬も、決してメジャーではない。


しかしフランスでは、この重だるい足の症状を重い足と呼び、さながら日本の肩こりのように国民が認知しているという。だから、彼らは重い足により敏感になり、重い足についての話題も多く、それを治療する薬もあるという。


更に話を進めよう。いわゆる西欧医学が発達していないような国では、それが発達しているような国では精神病と認定されるような患者も、その国の人々はまずもってそのような概念がないが故に、彼或いは彼女を決して特別扱いすることはないという。それが偏見に繋がる場合ももちろんあろうが、一方で、彼或いは彼女になんらの先入観なく施しをする等し、結果的に彼或いは彼女がその国に於いてはよく適応できるケースがあるという。身体的な損傷等が見られない精神病は特にそうであるが、一部の身体的疾患であっても、それを疾患と見なさない文化の国に於いては、その患者はもはや患者ではなく、その疾患はもはや疾患ではないのである。


よく、言葉なしに我々は思考することすら不可能であるという言説を聞く。ある現状があり、あるモノがある前で、それらに名前をつけ、言語化することで初めてそれが意識され、思考の対象となる。原始的な苦楽の感情はともかく、ある程度複雑な思考は、確かに言語化による意識が必要不可欠ではないかと思う。我々は、名づけることによって始めて、そのモノを意識化し、我々の知覚上に、そのモノが「存在」し始めるのである。


言葉によるネーミングは、あるモノへの意識を喚起させる非常に大きなツールであるし、逆にモノへの意識が強まったときに、言葉によるネーミングが要請されるとも言えるのであるが、肝要なのは、必ずしもネーミングそのものではなく、意識の強化ということがそのモノを作り上げるということである。言葉は多くの場合関与するが、しない場合ももちろんある。


病は気からと言う言葉があるが、これは、患った病への意識の強化が、よりその病の存在感を助長し、悪化(少なくとも主観的には)をもたらしうると言うことであり、その逆も然りということである。逆に、仮にではあるが、悪性の疾患の患者に対し、良性であるとの虚偽の説明をし、患者が十分に納得した場合、少なくとも主観的な症状は軽快に向かう可能性が少なからずある。無論、これは器質的よりも機能的疾患において当てはめられるべきものであるが。プラセボ効果なども類似の原理によるものである。


医学的な例が続いたが、このような意識化がモノを作り出すということは、あらゆる場面で見られる。たとえば西洋では文化的概念として悪魔が存在し、その風貌から人の美的感覚についても、立ち耳や八重歯は非常に嫌われるという。

 

しかし日本ではこれらを気にする人は少ないであろうし、まず、たとえば立ち耳に関して言えば、耳の形などよほどでない限り気にしたこともないという人も多いであろう。即ち、意識されないが故に、美的ファクターから耳というものはその存在を殆ど消しているのだ。


マイナスイオンなどというモノも、そうである。

 

確かに昔から、我々は森林や滝つぼの近くで感じる、独特な匂い、雰囲気、質感を知覚してはいたし、それに対し好感を覚えていただろう。しかし、その漠然としたモノに、マイナスイオンなどという、なんともよく分からないが比較的覚えやすい単語の組み合わせからなるワードが充てられたことで、あの、独特の空気への意識化は格段に向上した。

 

実際マイナスイオンとは何のマイナスイオンなのか、OHなのか、はたまたClなのかは知らないし、誰もそのことを気にとめてもいないように思える。そして事実、そんなことはどうでもいいのである。マイナスイオンという言葉により、あの今までなんとも表現できずにいたあの何かを、より容易に表現できるようになったことで、我々のあの何かへの意識、知覚は強化され、あの何かは格段に存在感を増したのである。


そして、あの何かはこの名前による意識化を武器に、今まで対してその存在感を発揮してこなかったような、公園の噴水や、小さな小川、あるいは、スチーム機においてですら、その存在を主張し始めている。明らかに、あの何かは、モノとしての力を強めていったのである。


逆を言えば、あるモノから名前を取り、意識しなければ、そのモノは消えていくということになろう。しかし、現実にはこのプロセスは不可逆性が強く、一度成立したモノが、再びなりを潜めることは、難しいようである。

 

もちろん、かつて存在していた言葉、それに伴うモノが、時代の変化と共に消えうせていくことは、無いことはない。しかし、多くの場合それは、モノそのものがなくなったが故に追従しての言葉の消滅であり、決して言葉の消滅がモノの消滅を誘導した例は多くないと思う。


モノを創ることは比較的容易なようだが、無くすことは難しいようで、これはいつか聞いた、「あったことをなかったことにすることは、かの(創造)神ですら出来ない」という、赦しの困難性の言説を思い出させるのである…。