シンプルな神

動物たちにとって、神とは何だろうか。


人は様々な宗教を造り(信者にとっては様々な宗教が人を創り)、様々な定義があろうが、仮に進化論的な立場から動物たちにとって神の存在を仮定すれば、それは自然選択の原理に他ならないだろう。(創造論的な立場からはまた違った見解があるだろう、それを語るほどに私は創造論に詳しくないため割愛する)


自然選択とは良く聞くが、昨今の主流である遺伝子レベルでの自然選択を是認するとき、普通の人には様々な疑問が生じるだろう。

 

利己的な遺伝子とはよく聞くが、果たして単なる化学物質の塊のようなものにその様な意思があるのかという初歩的なものから、遺伝子一つ一つでは生体として機能出来ないにも関わらず、遺伝子単体レベルにまで淘汰圧を還元していいのかと言う少しやっかいなものまである。

 

どうしても、淘汰される側に着目するから話がややこしくなるのである。

 

視点を、淘汰する側に移してみればどうだろうか。

 

だがこれが存外難しい。なにしろ、自然淘汰圧など目に見えるものではないからだ。それどころか、言葉で表現するのも実は難しい。

 

淘汰圧をあえて表現すれば、「なくなるものはなくなり、残るものは残る」ということになる。なんだか、余計にややこしくなってしまった。

 

利己的な遺伝子は遺伝子と言う本来意思のないものを擬人化したが故に多くの混乱を招いた。だが、本質的に、我々は性質や原理、摂理と言った、意思や目的意識のない

 

モノの把握には疎い。擬人化は、そういった状況の理解に大きな手助けとなるが、それは誤解を生み得る諸刃の剣でもある。


故に淘汰圧についても、あえて擬人化はしないでおこうと思うのだ。しかし、そうすると、なんともとりとめのない表現になってしまった。


言うまでもなく、自然選択、あるいは自然淘汰は、自然と言うものが意思を持って強きものを選び弱き物を切り捨てていっているのではない。

 

むしろ、強きものが残り、弱きものが消えうせる事実原理に、ある意味で自然という第三者を仮定し擬人化した上で説明しているのに過ぎない。即ち、この自然選択(淘汰)という言葉自体に、擬人化の性質をはらんでいると言える。

 

遺伝子レベルの自然選択に話を戻そう。

 

遺伝子にもちろん意思はないし、利己的な、という言葉はあくまで擬人化された表現のあやであることは、今更言うまでもないだろう。

 

では、遺伝子には意思などなく、ただ己の複製を増殖させる性質があると言うならば、どうだろう。

 

一見、目的意識を排し性質と規定したが故に、ある程度適切な表現にも見えるが、これでもまだ、実は不十分だと思う。

 

これだと、本質的に遺伝子という化学物質の塊は自己複製性があるように捉えられる。

 

正確には、自己を複製するシステムを(偶々)有した遺伝子だけがいわゆる生物の遺伝子として残ったと考えるのが適切であろう。あるいは、そういうものだけを我々が遺伝子と呼ぶともいえる。

 

遺伝子の元となったものには、自己複製性を持たなかったものもあったかもしれない。

 

しかし、それは当然、すぐに消えてなくなる運命にある。我々は、消えてなくなった数多の他のものを見ていない故に遺伝子には本来的に自己複製の性質があるように思ってしまいがちであるが、事実はおそらく、逆であり、我々が見ているサバイバーは少数派だっただろう。


なくなるものはなくなり、残るものは残るという、なんともそっけない原理が、創造神の想定まで駆り立てるほどに、「神がかった」複雑な機構を生み出した。

 

我々が見ている、あるいは見てきたあらゆる生物は驚くほどに生存競争に打ち勝つための様々な特徴を有しているが、その裏にはおそらく、その何倍もの生存競争に不適応な特徴の萌芽があったはずだ。ただ、なるなるものはなくなる、という極めてシンプルな原理の下、その萌芽は我々の目に付くほどに広まる前に消えうせただろう。


進化の現場は常に下手の数撃ちだ。

 

そこには決して生存競争に打ち勝とう、自己の複製を多く作ろうといった「照準」はなく、進化は四方八方に弾を撃ちまくるのみだ。

 

残らない弾は残らないが故に残らないのであり、残る弾だけが残っているが故にあたかもその残り弾のみに本質があるように勘違いをしてしまう。

 

我々は常に見えざる無数の弾に思いを馳せる必要がある。


なくなるものはなくなり、残るものは残るというこの味気ない、しかしこの上なく偉大な原理を全ての前に置き考えれば、淘汰の単位にそれほどこだわる必要があるのかという疑問すら沸いてくる。

 

即ち、遺伝子は一つ一つのレベルに於いて淘汰を受けるのか、いくつかが相関しながらなのか、あるいは今や廃れ気味ではあるが個体レベルなのか、更に大きく種というレベルなのか。


かの偉大な原理の前に立てば、そんなことはどうでもいいのである。とにかく、残るものは残り、なくなるものはなくなるのだ。

幸か不幸か、この地球上は有限の世界だ。

 

限りある資源と領域の上に、全てのものが立てるほどこの世界は広くない。

 

ただ、そこに立つ手段を、かの原理は選ぶことはないだろう。

 

遺伝子単体、あるいはいくらかの遺伝子群レベルでの淘汰を経るものがもっともよく残るならば(そして今のところそのようにも見えるが)、遺伝子淘汰が隆盛するだろうが、これは個体レベル、あるいは種レベルの淘汰の可能性を完全に排除することには決してならないだろう。なんらかのやり方で種や個体レベルでの淘汰を受けながら、よりよく残るものが現れたならば、かの偉大な原理は決してそれを拒むことはないだろう。


あくまで先にありきはかの偉大な原理であって、淘汰圧のレベルがどのレベルかと言う問題の方ではないのだ。

 

故に、少なくとも原理上は、淘汰圧のレベルはどのレベルにもその存在可能性が残されているといってよいだろう。


それにしても、自分自身、なんとも読みにくい、分かりにくい文章になったことである。

 

だから、私自身、他の稿においては、通常行われる程度の擬人化や、遺伝子淘汰説の前提化を行っているし、遥かにその方が書いている側、読んでいる側共にストレスフリーであると感じている。ただあくまで一度、此処に於いて原理原則に立ち返っておきたかったまでである。


それにしても、なくなるものはなくなり、残るものは残る。

 

この至極単純なフレーズが、ここまで複雑性を生むとは、なんと、シンプルな神だろう。