経験が邪魔になる

以前とある棋士の談話で、「経験があるとかえって邪魔になる」という一節を聞いたことがある。通常、経験性善説が蔓延している一般人の考えでは、経験の蓄積こそが「勘」を生み、豊富な経験に裏打ちされたデータベースから独創的な発想さえも生まれ・・・という、経験礼賛の声が大きい。

 

しかし、逆の言説も実はよく聞かれることで、たとえば専門家集団などでは、特定の業界内にとどまり続けたが故に独自の世界観、観念を形成してしまい、気づけば一般社会とはかなり乖離したものになったりする。あるいは、まったく異なる業種からの新規参入者が、その業種に長年居座り続けている者達には想像もつかないような(無謀とも思える)斬新な発想で、成功したりする。


だがここで考えたいのは、それよりも更に少し急進的なものであり、即ち、物事の上達に経験が必ずしも寄与するとは限らないということである。


さすがに、何か、スポーツでも学問でも藝術でもいいのだが、あるものにおいて上級者になろうとする、あるいは達人と呼ばれる域に達しようとするならば、多くの人はそのものを練習し続け、経験を積んでいくことに実りがあるものと信じて疑わないだろう。


もちろん、天賦の才がある程度存在することは承知したうえで、それでも、練習、経験を積み重ね、その先に上達というものがあることを疑うものはいないだろう。


しかし、実は経験を積めばつむほど上達から離れていく可能性があるとすればどうだろうか。


よく、間違った癖を積むといくら練習、経験を積んでもそれが逆効果になることは言われる。本人は一生懸命練習しているはずが、実は悪癖の形成に汗を流しているだけで、傍から見れば哀れな人、というケース。こうなると、もはやずぶの素人のほうがプレーンで真っ白であるから、よい練習を積めばすぐにこういったpoor man を追い越せる可能性はある。


しかし更に論を進め、よい練習を積んでいくことすらも、上達から離れていくとすればどうだろう。いや、厳密に言えば、上達はするのだが、いつまでたってもトップにはなれないという状態。


理論はこうである。一般に、よい練習といわれているものは多くの人々の間に既に知られているものである。他人と同じように、同じだけ練習していても、結果として練習で差はつかない。すると、わずかな天賦の差が序列をつける結果になるだろう。練習者は、「これでもか」というほどに自分は一生懸命練習、経験を積んでいると自負するが、たいていの場合となりの練習者も同じことを考えている。結局、1日に人間に与えられている時間は等しく、なかなか練習の量で差をつけることは難しい。


更に言えば、似たような練習を延々と続けたからといって、単純な1次方程式の如く結果は正比例するとは限らない。どこかで飽和点を見る可能性も十分にある。


では、練習、経験を独自のものとして、質の差異化を進めればいいのだろうという話になってくる。これは、一方では当たっているし、一方では不十分な面もある。


確かに、練習、経験の質を独自にし、他人の真似できない経験を積めば、すばらしい上達が待っている「可能性」はある。ただし、これはいわば博打に近く、独自の経験は、悪癖への登竜門の可能性もある。


さらに、多くの方には受け入れがたいだろうが、そもそも、経験を積めば上達するという、その単純な方程式自体を疑う必要があるのではないかということである。


少し先述したが、経験と上達は無限に正比例しているとは限らない。一定のラインまで経験があれば、あとは飽和点に行き着く可能性もある。

 

そして、飽和点に行き着いているにもかかわらず、経験にこだわり続けることは、新しい視点を逃す結果に繋がることもあるということだ。

 

上達には、経験、練習の積み重ねの上に、更に「ひらめき」という起爆剤が必要ではないかということである。


「ひらめき」の発生には、経験が寄与することはもちろんあるが、同時に、経験が邪魔をすることも多い。それは、冒頭第二段落で延べたとおりである。

 

必要以上の経験は、経験への固執、過信を生み、トップへ上り詰めるための必要条件である「ひらめき」の発生を妨害することがあるのではないだろうか。


これはなにも、むやみに慣習やよき練習法を否定するものではない。


こういう論をすると必ず誤解して、「常に新しい視点が必要、固定概念をすてろ」などと騒ぐ人がいるが、長い時間を経て自然淘汰された慣習や固定概念は、大方のケースに於いてかなり役に立つ、優等生の知識の集積であるから、これを馬鹿にすることはあってはいけない。


ただ、これら古きよきものは、必要最低限の経験取得時にベースとなり活躍してくれるものであるが、そこから更に極みを狙うときには、これだけに頼っていてはいけないということである。


即ち、70点や80点をとるだけならば、一般的な手法である、古きよき慣習、練習法に従い、十分な経験、練習を積めばよいものと考える。しかし、95や100を狙うとき、それだけでは不十分である。

 

そこで、「ひらめき」がその壁を破るためにどうしても必要なのである。


まとめると、経験、練習の蓄積は、もちろん基礎を固め70,80点をまずとるのに必要である。しかし、一定程度まで蓄積されたら、それからはそれに固執するのではなく、むしろそこから離れながら、極みへの壁を越えるための起爆剤となる「ひらめき」発生への準備を進めるべきだということである。


そして、その蓄積の一定程度のラインは、実は我々が考えているより、もっと低いところにある場合もあるのではないか、と個人的には思っている。