希少な「一人」

人は必ず一人で生まれ、一人で死ぬ。

 

あの世とこの世の間の旅路は、いつも一人席に座っている。

しかし、少なくともこの世に居る間に、人はどれだけの時間、一人で居ることができるだろうか。


この過密化した社会に於いて、一人で居るということは極めて困難である。

 

ここで言う一人で居るとは、他人の目に触れず、自身の発する声も誰にも聞かれない状況である。いわば、誰の目も気にせずに過ごせる状況である。

 

いわゆる、人間関係の希薄化による「孤独化」は進んでいようが、この、文字通り、一人で居ることは相当に難しい。


おそらく都心部の家庭を持った社会人が一人で居られるのは、トイレか寝室くらいしかないだろう。いや、寝室にしても、配偶者を持った多くの場合は一人で居ることは困難だろう。一歩外に出れば、一人で居ることは事実上不可能である、駅の並んだ個室のトイレに入ったところで、薄い板の隣には同志が居るのだから、これはもはや一人で居るといえようか。だからといって、家のトイレで何分過ごせようか。これを、一人で居るといえようか。


典型的な家庭持ちのサラリーマン男性を想起すれば、彼が完全に一人になれるのはある休日、妻と子供が外出している時間だけである。

 

それは一ヶ月の間に何時間あるだろうか。ともすれば、殆ど皆無の人も居るだろう。


かつて過密性は暴力を引き起こすという論があったり、またそれを否定する論があったりと、とにもかくにも、現代社会の過密性はいつの時代も注目に値してきた。

 

過密性は本稿の中心である、一人で居る時間を間違いなく減少させる。

 

エレベーターや繁華街での文字通りの過密性は、それはそれでまた特定の影響をもたらすのであろうが、人口増加と住居密集によるマクロ的な過密も、一つには一人で居る時間の減少を通じて我々に少なからざる影響を及ぼすことは推測できる。


様々な文化・社会的な拘束を受け、様々な行動や言動に制約がかけられている現代社会において、他者に見られている時間は自己アピールの好機であると共に相応のストレスを

受ける時間でもある。

 

一人で居る時間が少ないということは、文字通りリラックスした時間が少ないということに、少なくとも一側面としては帰結するだろう。


一人で居るというのは、太古の時代に於いてはある意味で危険な行為であったことだろう。

 

敵に襲われるリスクも大きくなるし、何をするにしても他者の協力がないということは不安材料ではある。


しかし現代社会に於いて、このような危険は殆どなくなった。

 

それよりも、一人で居るということのメリットが顕在化してきたように見える。

 

誰の目も気にせずに、精神的ストレスから開放された状態は、我々の多くがともすれば渇望しているものに他ならないだろう。一人で居る時間の思索は、他者との協同とはまた異なる発想を生み出すこともある。己を見つめるときに、他者の干渉は有害である。


かつて東京で、駅やら建物やらの個室トイレが常に大繁盛であることに驚いた。

 

人口が多いので当然でもあるが、その中には、少なからず束の間の「一人」を満喫していた現代人の影が浮かぶ。聞けば、トイレで長居をする人も増えているという。もう少し、「一人」を満喫できる別の場所があっていいと思うのだが…。「一人」に希少価値が出るのは、なんだかおかしい気がする。あまりこれを放置していると、過激派としてのひきこもりが増加する憂いがあるのである…。