すべては道連れに…

一億総中流等という言葉はもはや過去のものとなり、昨今では格差社会は叫ばれて久しい。

しかし、それでも世界的に見ればこの国は中流の王国であり、なにより、そのメンタリティが均等性を求める性質を強く有しているように思われる。


みんなが平等に、みんなで手を取り合って…というとかなり胡散臭く感じるかもしれないが、言い方を変えれば、他人と同じ位に、他人がそうしているから、といった思考回路は、誰もが自覚する所であるだろう。


これはよい部分もあるのだが、悪い方向にも働く。とりわけ、出る杭は打たれるという、昔ながらの格言が端的にその副作用を現している。


自分が抜け出すのが無理なら、抜け出す他者の手を取り引きずり込めばいい。

 

更に頭を押さえて沈められれば尚良い。


そんな意識が、あってかは知らぬが、傍から見ればそういう状況は、確かにしばしば目にする。子供の優等生虐めに始まり、社会人に於いては出世の速いエリート批判のみならず自由人叩きや独身貴族叩きなど、多くの場面でこういった状況は普通に見られる。

 

自分の隣に成功者が居るならば、その成功者を超えるほどに成功を目指すのを正の競争とするならば、こういった足の引っ張り合いは負の競争と呼べる。その裏には、もはや隣の成功者を絶対に超えられない諸般の事情が存在する。


ある人が壮大な夢を描いたとして、多くの他者は無理だ無理だと五月蝿いばかりに騒ぎ立てるだろう。本当に無理だと思っているならば、黙ってそうしておけばいいものを、あたかもその挑戦者の気力を削ごうとするかの如くに、必死になって無理だコールを続けるのだ。


そこにあるのは、無謀な挑戦者への親切心などではなく、もしも挑戦者が成功したら自身は絶対に超えられないほどの成功者になってしまうという危機感、それを未然に防ぎたいという意識そのものだろう。


様々な事情から溜まり場に溜まっている人々は、そこから荒れ狂う滝を登り上流を目指す者の足をとにかく引っ張ることに躍起になる。自身が見たこともないような別世界を、誰もが見ずにその生を終えるのならまだしも、一人抜きん出てその異世界を経験するなどということは、断じて許しがたいのである。


彼らは挑戦者が発する「やはり無理だよね」という言葉を、手薬煉をひいて待っている。その一言で彼らの絶対的敗北感は遥か彼方へ遠ざかり、暖かな安堵の日差しが差すのだろう。

 

それでも挑戦者が一歩を踏み出そうものなら、彼らはその足を力の限り引っ張ってその一歩を阻止するだろう。溜まり場人生への道連れを、何としてでも強制するだろう。

 

それを振り払えたものだけが、最大最高の賭けに出る権利を手にする。ここで成功すれば、かの溜まり場は自らの糞積場になるだろうし、逆に失敗すれば、自身が彼らの糞積場に身を置く事になるだろう。


みんなが手を取り合って笑える世界など、空想の産物であることは分かっているが、仮にそれが存在するならば、それはかの溜まり場世界の美化、それもかなり無理やりな、

であろう。みんなで手を取り合っているのは、そこから抜きん出ようとする者をすぐに引っ張る為の、実に見事な隠れ戦術であったのだ!


この負の競争に、違和感を覚える人は少なくないはずだ。そう思いたい。

 

いや、一方で確かにこういう形の負け回避もあっていいのかもしれない。しかし、しかしである。なんだか釈然としないのは、青臭い美意識がそうさせているのだろうか…?