不安定、故に夢あり

私がかつて学生だった頃に、とある教師から聞いた言葉がある。

 

その方曰く、教師になるのは夢だったが、実際に合格通知を手にした際、嬉しさと共に、一種の喪失感があったという。彼女はその理由を、就職以前は無限にあった就職選択先が実際に教師という一つのものに決定されたことで、他のあらゆる可能性が消失したことによるものだと続けた。

 

事実、夢とは、不確定ゆえに存在するといってよい。

 

これは、ダブルミーニングとしての表現である。

 

即ち、夢の成立要件に不確定さ、不安定さがあるということ。そして、もう一つは、夢そのものに不確定性、不安定性があるというもの。


まず一つ目の意味としての夢の不確定性から考えてみよう。

 

とある状態に憧れ渇望したとして、それが現実のものとなったとき、もはやそれは夢ではなく事実となる。夢とは、現実の対岸に存在しなければならない運命にある。

即ち、夢は「そうなるかどうかわからない」不確定の状況でなければ夢でありえない。


冒頭の教師の話も、主にはこの意義で夢の消失が起こったといえる。

しかし、彼女の言説で着目したいのは、夢の現実化による消失というこの意義よりもむしろ、「他のあらゆる可能性が消失したことによる」喪失感、夢の消滅である。

 

夢が現実化することによる夢の消失は、極めて単純化された思考で考えれば、むしろ言葉上の遷移でしかなく、これが即ち多大な喪失感を生み出すとは帰結しにくい。

 

もちろん、心理学的にバーンアウト現象などの類似現象は認められようが、必ずしも生じる現象ともいえないであろうし、夢の現実化は達成感を生み出すという方が一般的に認知されやすいというものだろう。


そこで、他の可能性の消失による喪失感が問題となる。

 

これは即ち、可能性と夢の関係を表していると考えられる。


可能性と夢。これは、先述の夢と不確定性の2つめの意味である、夢そのものに不確定性、不安定性があるというフレーズに関係している。


夢とは、実は明瞭な輪郭線によってはっきりと認識できる未来予想図ではなく、むしろぼんやりと、時に流動的でどのようにも変化しうる、極めて不確定かつ不安定な存在である。人がある夢を描くとき、其の細部まで描くことは稀である。それはもはや計画やプランと呼べる類のもので、そこまで描けるときそれは相当の実現可能性が担保されていようから、もはやそれは夢から現実へと遷移途中にある、「半夢」とでも呼べる状態にある。


人が夢と呼ぶものは、かなり実現可能性に疑問符が付いており、故にその細部まで描きたくても描けないものである。そして、人の夢は時間の経過や心理変化などにより極めて流動的に変化する。この意味で、夢はそれ自体が不確定で不安定なものである。


しかし、更に進めて、実は夢とは、あらゆる可能性が仲良く同居している、悪く言えば極めて不安定な状態そのものを言うのではないかということも出来る。

 

話を戻して冒頭の教師の言葉にもある、「あらゆる可能性」が存在している状態、これこそが夢そのものではないだろうか。


冒頭の教師について、教師になるということは確かに夢であったのだろうが、それは夢の代表であって、他のあらゆる可能性を完全に打ち消すほどのものではなかったのかもしれない。実際、人はある夢を描きつつも、100%の自信と確信を持ってその夢が全てといえる人は少ない。

 

どこかで、別の可能性や、其の夢が現実となったときに起こるであろう不安や心配を抱えながら、淡い夢を描くものである。


そんな中で、どの可能性も実現していない、あらゆる可能性が存在している状態は、不安定で居心地の悪い、まるで思春期や青春の代名詞のような時期であろうが、多くの人がこのような時期に苦くも甘い顧みを行うように、かえって至福のときである場合があるように思う。

 

本当の夢とは、全ての可能性が燦燦と輝きながら宙を浮くような、そんな状態にこそ存在するのではないだろうか。その意味でも、子供には夢があり、極めて言えば、生まれたての赤子は最大級の夢に包まれているというのは正しい。

 

そうならば、人が夢の実現と呼ぶ、特定の状態の選択、現実化は、二重の意味で夢の消失である。

 

一つは、先に言葉上の遷移、言うならば言葉遊びと揶揄できよう意味の上で。

 

もう一つは、不安定という真なる夢から転げ落ち特定の状態(現実化された夢)に落ち着くという、少し逆説的な意味の上で。