過ぎ去りし日は穏やかであった

人はしばしば過去を懐かしみ、懐古主義に走る。

 

今を憂い、未来は更に憂い、過去をあたかも栄光の日々のように捉える。

 

思うに、其処には2つの不可避な作用が働いているようだ。

 


一つは、記憶の美化作用であろう。心理的防御策として、人はいやな記憶を一定程度抹消する作用を有しているようである。もっとも、酷く過酷な記憶を得たときはトラウマとなって増幅作用する場合もあるようだが。

 

 

 

過去の日々にもおそらくは数多の苦痛と苦難があったに違いない。

 

しかしながら、この抹消作用によって過去は少なからず美化を受けている。

 


もう一つは、過去は確定しているという事実からの安心感であろう。

 

過去に苦痛や苦難があったとしても、それはあくまでも過ぎし故に既知のことであり、しかも、今こうして回顧している余裕があるということは、致命的な苦痛や苦難では無かったということの証明でもある。

よほどの災難や苦難を背負っていない限り、過去は今をそれほど侵食しない、安全な既知の事実の連続なのである。そして、単純に既知であるゆえ親しみを持つ。


一方の今や未来は非常に流動的かつ不確定であり、我々の制御下に無い。故に不安を覚え、既知でないが故に親しみを持てず、嫌悪感を生じせしめる。過去に思いを馳せる時、人は束の間神になったような気分になっている。即ち、事象の全て、事の顛末全てを知っている、全知全能の神になれるのは、過去に思いを馳せる時以外に有り得ない。


そんなよい気分になれる過去に、人はいつも惹かれる運命にある。幾ばくかの苦き想い出がある方も多かろう。しかし、しばしば苦さの中に甘さがある。過ぎ去りし日は、穏やかであったのだ。少なくとも、今の見地から見れば。