「フツウ」と「個性」

価値相対主義の影響かは知らぬが、「個性」の尊重が声高に叫ばれる時代が世紀末ごろからあったように思う。現代でも、基本的に潮流は”そちら”の方向で変化はしていないと見えるが、いかがだろうか。

 

さて、「個性」と対極にあるのが、標準化されたモノとしての「フツウ」だろう。

 

かつての日本社会では、いや、多くの先進国と呼ばれる国々でも多かれすくなかれ、これは経験しているはずだが、「フツウ」に標準化された勤労者たちが効率のよい組織社会を形成し、経済成長に寄与してきた時代があった。


「フツウ」は集団全体の利を考えればもっとも合理的なシステムである。考えてみればよい。自動車の燃料機関に於いて、各々のパーツは見事に標準化され、エラーなく規則どおりに動く。もしも各々が勝手な方向を向き動いたとしたら、燃料は漏れ車体は暴発的爆発により吹き飛んでいるに違いない。


組織も大きな目で見れば燃料機関と同じである。


今でこそ、社員や社会構成員各々の自発的・創造的な活動が新たな価値を生む、などと綺麗ごとが流布されているが、かつては各分野に分業された人材の機械的統合で日本を含めた多くの先進国は物質的豊かさを作り上げた。


「自発的、創造的~云々」などというフレーズは、第三次産業をベースとした、いわば物質的には相当満たされた上でのビジネスモデルに、辛うじて適用されるもので、所詮第一次・第二次産業ベースの成長には、やはり標準化された「フツウ」の機械的統合組織がもっとも有効であることに異論は少ないだろう。そして、今のところ、多くの発展途上国もこの轍を通ることを避け切れていない。


しかし、この「フツウ」による標準化モデルには、「フツウ」化により歯車と化される個々への配慮などは微塵もない。故に、昨今の先進国では、これに対するアンチテーゼとして、「個性」重視の創造型ビジネスモデルなどがちやほやされているのであろう、しかし、戦後の焼け野原において、最初からこのモデルを採っていたら、おそらく今の日本の物質的豊かさは存在しなかっただろう。


あくまでこのモデルは、ある程度成熟した社会、産業、経済の上に成り立つものである。というのも、「個性」モデルの生産力は「フツウ」モデルにはるか及ばないし、更に言えば、「個性」モデルでどれだけ優れたアイデアや企画が出ても、実際にモノを生産するのには「フツウ」モデルが極めて最適な大量生産が必須であるからである。

 

逆に考えれば、成熟した先進国では、「フツウ」な人材によるマスプロは人件費の安い海外に任せれば済む話で、「個性」を云々かんぬん言える一種の”余裕”あるいは、「フツウ」の不必要性が生じているだけなのかもしれない。


先進国の個々人は、「個性」を尊重されて一見幸せそうに見えるが、実際のところは幸せの恩着せのような一面もある。

 

「個性」を大事にといわれながら、現実社会には、あらゆる「個性」を許容する能力も、心構えも、そもそもその意思も、実は微塵もない。排他的な個性、攻撃的な個性、内向的な個性、非生産的な個性、これらはすべて、「個性」は大事と言う社会で「個性」としてすら認められず、単なる「欠陥」として扱われる存在であり続けている。


「個性」尊重社会は、明るい、楽しい、協調的な「個性」限定の、いわばセミオーダー的選択論であって、決して純粋な価値相対主義的多文化社会とは異なる。


そんな中、どれも似たり寄ったりなオプションのうちで、自らの「個性」を身につけていかなければならない先進国の個々人は、あらかじめ標準化された「フツウ」に準拠しさえすればいいかつての社会の個々人より、いわば生きるハードルは上がっているのかもしれない。


本当の「個性」を出せばそれは社会には受容されない、しかしなんらかの「個性」を出さないと生き残れない。そんな中で、先進国の個々人は、半ば嫌々に決められた少ないオプションのカタログをめくりながら、仕方なく”ましな”「個性」を購入するのである。