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泳がせ釣りのエサの確保について

 泳がせ釣りではエサの確保が釣りの命運を決めるといっても過言ではありません。アジなどを購入していく場合は別として、現地調達の場合、まずはエサを釣らないと話が始まりません。

 アジサバイワシ、いずれかが簡単に釣れる状況なら何の問題もないのですが、なかなかつれない場合もあります。かつて港で釣っていた時は、いやというほど釣れていたこれらも、いざ大物狙いで磯に立てば、釣れるのはスズメダイや木っ端メジナばかりといったことも…。そんな時にどのようにエサの確保をするのか、ということについてです。

 まず、ふつうこれらの魚を狙う最も効率的な釣り方はサビキです。サビキ用の竿を持って行ってもよいですが、磯などでできるだけ荷物を減らしたいときは個人的には泳がせの竿でサビキもしてしまうことも多いです。サビキが終われば仕掛けを外し泳がせの針をつけエサをつければよいだけなので簡単です。ただし剛竿で泳がせをする場合はサビキがかなりやりにくくなるかも知れません。

 さて本題、サビキで釣れない時、ふつうアジサバイワシ類を釣る手法としてはほかに「ウキ釣り」と「遠投カゴ釣り」があります。前者はコマセを巻きながらオキアミのついた1本針で釣る手法、後者は遠投用のカゴとやはりオキアミの付いた1本ないし2本バリで遠距離を狙う手法です。

 まず「ウキ釣り」は仕掛けがいわゆるフカセ釣りのウキ釣り仕掛けとほぼ同様ですから遠投は効きません。この釣りで釣れて、サビキでは釣れない、という状況はほとんどないと思われます。仮にサビキ針では食わず、オキアミの付けエサが必要であるだけなら、サビキの針にオキアミをつければよいだけです。

 多くのサビキで釣れない状況というのは、そもそもどこにもアジサバイワシがいないか、遠距離にいてサビキでは届かないという場合がほとんどでしょう。そうなると、「遠投カゴ釣り」が必要になってきます。

 この釣りは慣れれば100m以上飛ばせる釣りといわれていますので、到底サビキ仕掛けでは届かないところを探ることができます。ただ、デメリットも多いのです。実際「エサの調達手段」としてやってみた感想からすると、少々効率が悪すぎます。

 第一に、この釣りは専用のウキ、カゴ、天秤など道具がそれなりに必要で荷物が増えます。さらに遠投するには磯竿や柔らかめの投げ竿などそれに適した竿が専用に必要です。泳がせの竿をこれらの竿とするなら流用もできますが。

 第ニに、多点針の仕掛けを背負わせられないということです。基本的に2本針程度までとなります。付けエサの付いた針をかごに収納する場合1本しか収納できず事実上付けエサの付いた針は1本しか結べません(中には複数本の付けエサ付きの針を収納する方法もあるのかもしれませんが市販のカゴではなかなか難しいのではないかと思います)。

針の数が少なく物理的に一気に数匹のエサを確保することは不可能、さらに確率論的に言ってもアタリが出るまでに時間がかかりやすく感じます。

 第三に、トラブルが他の釣り方に比べて多めです。無論、慣れた上級者であればそうでもないのでしょうが、いわゆる吹き流し仕掛けでハリスを3mとか4mとかとるため、原理上絡みが起こりやすいのです。初めてこの釣りをしてみると1割から2割くらいは絡みがありました。さらに向かい風の際などはもっと絡む率が増します。

 第四に、カゴにつけエサを収納するタイプのカゴ以外では、大遠投時につけエサの落下が気になります。これも上級者であれば解決されるのでしょうが、あくまで泳がせのエサの確保としてのカゴ釣りでは、少々不安要素が大きいです。

 エサの確保としては、とにかく短時間、できれば数十分~1時間以内にエサを確保し本番の泳がせへ移行したいものです。遠投カゴ釣りはこういった短時間ですぐに結果を出すには少々不向きに感じます。

 サビキのよいところはその都度付けエサをつけないで済むため手返しが良い、トラブルが少ない、そして多点針のためタナを探る際もスピーディー、といった点があります。短時間で結果を出すのに向いています。ただ、付けエサをつけないと反応しない場面、そして遠投が求められる場面では不利なのです。

 これを克服するため、そしてとにかくできるだけ早くエサを調達するための釣法として、今のところベストではないかもしれませんが最もベターかなと思っているのが、吹き流しの投げサビキ、次点が蓋つき下カゴでの投げサビキです。

 通常の投げサビキは、ウキ、ロケットカゴ(上かご)、サビキ、ナス錘といった形になるかと思いますが、これはカゴのコマセとナス錘の2つの重心があり飛びません。さらにフェザリングすればさほどではありませんが重心が分かれている分絡みも起こります。そして錘が下にあるため、細い幹糸のサビキではキャストで切れます。さらに、遠投しようと重めの錘をつけると仕掛けが海中で直立不動になり食いが悪いです。

 吹き流しの投げサビキは、ウキ、ロケットカゴ、片テンビン、ナス錘、サビキといった仕掛けです。これだとカゴとナス錘の距離が短く重心が一つになり良く飛びます。ウキは軽量で絡みにくい中通しの細めのものが良いように感じます。サビキは普通の6本針ではやや絡みが出やすいので3~5本針程度にします。

 吹き流しですのでそこの部分の絡みは確かに起こりえますが、遠投カゴ釣りのような長ハリスではなくせいぜい1m程度ですのでまだましです。どうしても絡みやすい場合は先に小さな錘やビーズなどをつけるのも一つです。また天秤のサイズを変えることでも絡む率はかなり変わります。この吹き流しは多くのメリットがあり、まず海中で漂うので食いが立つ、そして錘をつけないので細い幹糸でも問題がなく、これも食いをよくしてくれます。また当然ですが潮の流れがあるところではコマセと同調しやすくなります。

 吹き流し投げサビキは、遠投性はカゴ釣りには及ばないものの一般的な投げサビキよりはかなり飛びます。あとは付けエサの点ですが、フルスイングしなければオキアミをエビ反りに刺せばそれなりに持ちますので、付けエサにしか反応しない場合はつけることもできます。

 なお少し手間ですが、サビキはスキンにしか反応しない時、ハゲ皮が良いとき、そして付けエサしか反応しない時などがありますよね。その都度仕掛けを変えていては手間ですし時間がかかりますので、私は市販のスキンとハゲ皮を半分に切って結び、ミックスサビキとしています。元からこのような製品もあるようですがやや高価ですしね。その際ハゲ皮はやや大きめの針にして、付けエサをつけられるようにしておきます。スキンはもともとあまりエサをつけるのに不向きですので、すれた魚用に小さめの針のものをセットします。

 例ですが、スキン小針2本、ハゲ皮3本、内2本につけエサをセット、これで投げてどれにかかるか様子を見、例えばスキンばかりかかるようでしたらすべてスキンに変えるのもあり、です。もっとも、エサ確保の際はそんなに多く釣る必要もないですので、単純にトラブル軽減のためハゲ皮以下を切り落とすといった選択肢もありです。

 次点「蓋つき下カゴ投げサビキ」は、投げサビキのもう一つの一般的手法である、ウキ、サビキ、下カゴ、という仕掛けの、下カゴを蓋つきの下カゴに変えただけです。これは、手軽でトラブルも少ないですし、遠投して深場を攻める際も下カゴの弱点である「タナにたどり着くまでにエサが出きってしまう」という問題をクリアしてくれます。しかし、吹き流しほどの遠投性は無く、幹糸を太くする必要があり、そして海中を漂わないため食いはさほどではない、というデメリットは残ります。

 本当のところ、吹き流し投げサビキも完ぺきとはいいがたいものですが(遠投性…100mは飛びません、付けエサ…投げれば投げるほど外れます…収納カゴのようにフルスイングは無理です)、現時点では最も手っ取り早くエサの確保につながる手法ではないかと思います。足元でいくらでもエサがつれるときには何も考えないことですが、どうにもエサがつれない時にはお試しいただくのもよいのではないでしょうか。

 

                                      文責 Y

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やり取りの「癖」について

 伊豆半島に移転して早3か月が経ちました。ただ感覚としては「まだ」3か月かといったところです。もっと経っているように感じられるのは、この3か月がかなり忙しく様々なことがありすぎたからに他ならないでしょう。

 さて至極個人的な話、今年は移転で忙しく釣りからかなり離れておりました。

具体的には1月から5月まではほぼ何も釣っていない状況でした。6月から再開しましたがここ伊豆半島は当然海釣りがメインとならざるを得ない地理ですので、以前は川時々海、だったのが今や海オンリーになりました。

 以前は海に出るのに2時間、といったところに住んでいましたので海釣りといえば夏~秋のよく釣れる時期に週一行くか行かないかといったところでしたがここではやる気と時間さえあれば毎日でも行けなくはない近さです。

 さて、海釣りと川釣りの違い、いろいろありますが今回はやり取りの仕方について少し考えることがあり書いてみたいと思います。

サーフの釣りならいざ知らず、東伊豆は磯場がメインなので足場が高いのですが、そうすると必然的に例えば本流釣り(これ、川のですよ、私にとって「本流釣り」=渓流の本流釣りでしたが磯釣りファンには別の意味になってしまいますね)のような水平のやり取りとは真逆の垂直のやり取りをせざるを得ない場面が多くあります。

正直なところ、私は目線が水面に近いほうがやり取りは絶対にスリリングで楽しいという考えで、したがって立ちこんでの本流釣り、ボートでのヘラやカヤックの釣りなどは好みなのですが(後者2者は経験なしですが)、まあ磯場は概して足場が高いですしこれはしょうがないとあきらめています。ただ目線が高いので魚が表層に来るとよく見え、別の楽しさはあったりもしますが。

 垂直の釣りは竿を立てすぎるとだめですし、岩場が多く根に走りやすいのでがっつり止めてやらないといけない場面も多くあります。ただ頭ではわかっていても、どうも以前の水平の釣りの「癖」が抜けない部分があります。魚が足元に来ていると、水平の釣りではほぼフィニッシュに近いですから竿は自然とかなり立てるものですが垂直の釣りでは足元に来てからの突込みが多いので、また竿とラインの角度からしても近場に来れば来るほど竿は立てるべきではありません。

 さらに悪いことに、磯場では結構遠投が必要な場面が多いので、本当はセンターピンでやろうかというところを、「うーん、飛ばないし今日はスピニングでいいか」と自堕落にスピニングに走っていると、どうもやり取りが下手になった気がしてなりません。根に走られ切られたり、針はずれが多くなったり…以前はどんな釣りでもセンターピンを使っていたのですが、こういったことは少なかったのですが…。

 ここでセンターピンでのやり取りとスピニングでのやり取りの違いを再考してみますと、前者はいわゆるレバーブレーキ付きのスピニングと同じようなもので、いざというときにさっとラインが出せます。さらにドラグ調整も自分の指一つです。そして泳がせやデッドベイトでも飲ませるような釣りの場合(私は海釣りはほぼこれらの釣りしかしません、理由は最もシンプルなリグ、多くは針と糸だけでなおかつ最も大物がつれやすく延べ竿の釣りに近い感覚があるためです)、アタリがあってからシームレスに走らせることができます。スピニングでもベイトランナーならこの点はクリアできますが、たとえリアドラグのスピニングでもやり取りの最中のドラグ調整は「指ドラグ」にはかないません。

 まあ私がスピニングの使い方が下手なのでしょうが、どうしてもやり取りの最中に一気に絞り込まれた時のことを考えドラグをやや緩めに設定しがちなのです。そうするとなんだかんだで底に入られ根ずれで切られる、ということが多い気がします。

 本当に個人的な感覚の話ですが、私はやり取りでは「これは延べ竿だ」と思ってのやり取りをした時が最もうまくやり取りができているように感じます。延べ竿だと思えば、ラインは基本出さない、となれば常に先手を打ち体も柔軟に動かし竿の曲がりをしっかり生かす動きを自然と行えるような気がするのです。これがリール付きだと思うとどうしてもまあ走られてもラインは出せると余裕をかまし、そのうちに相手が有利になると。

 無論青物など最初は走らせたほうが良いもの、というよりも走らせざるを得ないものも海には多くいますが、そのあとはやはり「これは延べ竿」と思ってやり取りをしたほうが良い気がします。

 私もセンターピンを使い始めたころはラインがいくらでも出せるので特にオープンスペースでは好きなだけ走らせてから巻いてくるといったやり取り、いや、これはやり取りとは言えませんが、こういう釣り方をしていた時もありました。しかし明らかに延べ竿よりもキャッチ率が悪かったので、考えを改め、やり取りでは本当に伸されそうなとき以外はラインを出さない、竿尻を握り、本流竿の感覚でフロートロッドを曲げてやり取りをするようにすると格段にバラシが減り延べ竿以上に獲れるようになりました。せっかくよい「癖」がついていたのにリールをスピニングに変えたことでどうもその「癖」が抜けてしまったように感じました。

 よい癖は簡単に抜け悪い癖はなかなか抜けない、といったところでしょうか…。少し初心に帰り、またセンターピンでよい癖を戻したいと思います。

 

                                     文責 Y

既に2月

 本年初の投稿ですが既に2月…時がたつのは早いものです。遅い時もありますが…。

最近気になっているリールがあります。それは台湾リールと呼ばれるかなり見た目原始的なセンターピンリールで、八重山地方で用いられているようです。今まで北方ばかり目を向けていましたが今年は南の島へも行ってみようかと思います。また海でのセンターピンリールの可能性を本格的に探ってみたいと思います。今まで泳がせ釣りには使ってきましたがもう少し幅を広げていければと思います。

                                         文責:Y

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2016年も終わり…

 今年も残すところあとわずかとなりました。今年はPOLE&LINEとしてはカープレンジのアイテムを数多くリリースしご好評頂きました。ロッドの方も遅延が生じましたがフロータニアを年末になんとか発売することができました。

 私個人としては今年はかなり色々あり大変な年だったのですがそれはどうでも良い話ですので来年の予定について少々…。

 ロッドのほうですが超大物用本流竿が着々と進んでおり上手く行けば来年リリースできるかと考えています。RUDOW8500以来の新竿ですが、はっきり言ってパワーは桁違いに強く、それでいてモーメントが小さく持っている感覚としてはかなり軽く感じる良い竿に仕上がっていると思います。そしてデザインもかなり斬新、挑戦的なものに仕上げる予定です。延べ竿の常識を覆す様な竿になるものと考えます。

 また別のロッドのプロジェクトもあるのですが、それはまだ発表できる段階ではありませんので…追ってご報告させていただきたいと思います。

 カープレンジでは今年に相当の商品をリリースしたため来年もこのペース、というわけにはいかないと思いますがいくらか新製品を考えています。

 一方、同時運営しておりますLEELでは、数年前に比してかなり輸入量が減ってきていることにお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。為替の関係もあり厳しい状況が続きました。またPOLE&LINE製品の拡充に伴いカープ用品などは「共食い」を起こすアイテムも増えて来ましたので輸入をセーブしています。またカープ黎明期と異なり消耗品類はかなり市場全体がこなれてきた印象を受けます。今後カープレンジ商品とオーバーラップしない欧州メーカーの独創的なアイテムのみに絞った輸入を行って参る予定です。各種カープ用品に関しましてはブンブン相模原店様をはじめ実店舗様での取り扱いも始まり、商品によっては実店舗様でのみ購入可能なものも出て来るかと思います。是非店頭でのチェックも宜しくお願い致します。

 最後になりましたが本年もPOLE&LINE製品をご愛用いただき誠にありがとうございました。来年も何卒宜しくお願い致します。なお年末年始も営業・発送等は通常通り行っております。

 

文責:Y

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2016年サケ釣りシーズン

 今年も鮭釣りのシーズンとなりました。昨年ほどの遡上量ではないようですが河川によってはまずまず上がっているようです。そんな私も例年通り行ってきましたが今年は悪天候でなかなか疲れた釣行となりました。しかし色々発見もあり来年の釣りに活かせそうです。これからはモニターさんの釣行結果に期待したいと思います。そうです、新しい超大物用本流竿の開発が続いているのです…。

 今年は某大手メーカーから新しい鮭の竿が発売となり、釣り場でも何度か見かけました。サケの竿もすっかり一分野として定着した感がありますが適合ラインの肥大化も凄まじいものがありますね。そういうこちらも開発中の竿は相当ヘビーなものになりそうですが。

 個人的にはサケ以外にも大物を延べ竿で釣るという分野がもう少し広がっても良いように思いますがなかなかこれはそうはいかないようで…竿が高すぎるのもあるのでしょうが、それ以前に、メーターに近い魚を獲れる延べ竿がそもそも存在するという事を知らない釣り人があまりに多いのも一つの事実だと思います。

 もっと大物延べ竿釣りの裾野が広がればこの分野の竿の発展にもつながると思うのですが。サケだけですとこの時期限定の風物詩的な側面もありどうしても各メーカーせいぜい1~2モデルしか造れないでしょう、市場規模的に…。こちら側が言うのもなんですが、この分野はまだまだ開発研究の余地がある新しい分野だと思います。黎明期に比べるとだいぶ進みましたが鮎竿等と比べるとまだまだです。10年後、20年後どんな大物本流竿が売られているか楽しみでもありますが…。

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フロートロッド「フロータニア」の発売時期遅延についてのご案内

 既にご予約を頂いておりますお客様にはご連絡させて頂いておりますが、14ft 5pcs フロート/ロングルアーロッド FLOATANIA の発売時期につきまして、当初はこの秋を予定しておりましたが生産遅延につき発売時期が遅延することとなりました。詳細は追ってご報告いたしますが現在のところ今冬アタリを予定しております。ご迷惑をおかけいたしますが何卒ご容赦ください。

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ウェブカタログをリニューアルしました

 ウェブカタログですがカープレンジの新商品が今年はかなり多くなりましたのでここでまとめて追加し全商品掲載いたしました。全64ページです。

 今年はまだフロータニア・14ft5pcsロッドのリリースが控えておりますがとりあえずここで改訂した次第です。

 ところでウェブカタログですが世界的にはかなり普及しているISSUUですが日本ではまだマイナーな存在のようですね。ISSUUもフラッシュベースでしたがもうすぐHTML5に対応するようですので現在PUBHTMLと併用していますがまもなくISSUUに一本化できそうです。

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全品送料無料、カード払い可!!ダイレクトショップサービス開始!!

既にトップページでも告知しておりますが当サイト上でポールアンドライン製品を全品送料無料でお求めいただけるようになりました。

今まではLEEL/POLE&LINEストア上での販売が主でしたが、送料が掛かるのとお支払方法にカード払いが無かったため、この度ポールアンドライン製品はすべて当サイト上で①送料無料 ②カード払い可能として販売させて頂くことになりました。

 

例えば北海道や沖縄など従来LEEL/POLE&LINEストアではかなり送料が掛かっていた地域のお客様には実質的にはかなり値引きとなりますので、是非ご利用頂ければと思います。

 

エクエスRUDOWBUDDYザ・クイバー5の各製品は当サイト上で直接お求めになれます。

カープレンジ、BoeCen小物類は「カープレンジダイレクトショップ」上でお求めになれます。

 

また従来通りLEEL/POLE&LINEストアでもポールアンドライン製品の取り扱いは継続いたしますのでこちらでもお求めいただけます。

 

★お得な使い分けについて

ロッドは当サイト上のダイレクトショップで買われた方が送料無料になる分お得です。

 

カープレンジ商品等でゆうちょ銀行振替を利用される方は従来通りLEEL/POLE&LINEストアをご利用下さい。カード払いであればカープレンジダイレクトショップが唯一の選択肢です。いずれにしても送料無料なので金額的には変わりません。

 

ザ・クイバー5は当サイト上よりもLEEL/POLE&LINEストア上の方が販売価格が安いですが送料が掛かる為本州の方はどちらで買われても大差ないと思います。北海道などの方は当サイト上で買われた方がお得です。

 

ザ・クイバー5とBUDDYのお得なセットはLEEL/POLE&LINEストア上のみでの販売です。

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フロータニアのブランクリフティングテスト

1kgリフト
1.5kgリフト
2kgリフト

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本流竿、海を渡る。

 去年あたりからRUDOW8500のオーダーが海外特に北米から来るようになりました。一昔前まではおそらくこのような本流竿の存在は海外では殆ど認知されていなかったと思いますがインターネットの発達とテンカラ人気の高まりで延べ竿全般への興味が高まっているようです。特に渓流系の認知度は高まってきています(ヘラ竿系は未だ遅れている感がありますが)。

 本流竿は鮎竿と並び日本の延べ竿の最高峰に位置する竿です。長さも、価格も、求められる技術も…そして対象魚も、本流竿は延べ竿の限界に挑む竿であり、鮎竿は友釣りという極めて特殊な釣法に対応するための高度な専門性が求められる点である種の限界に挑む竿です。

 まだまだテンカラに比べると本流竿の認知度は低いのですが、それでも少なからざる海外のアングラーがこの限界に挑む釣りに興味を持っているようで…体力のある海外のアングラーならばよりヘビーな本流竿でより大きなサーモンをターゲットにしてもおかしくありません。

 RUDOW8500でもキングサーモン釣りを楽しんだとの知らせも頂いていますが、どの程度のサイズなのか…分かりませんがこの竿は基本はメーターまでを推奨します、販売側としては…。ともあれこの手の釣りが海を渡って楽しまれているのはこの上ない喜びです。

 一方で海外では大物延べ竿の釣りに対する批判や偏見も根強くあるのが現実です。例えば竿が折れたら魚は竿を引きずったまま死ぬのでは?とか、ラインブレークが多いから無駄に魚を傷つけている、とか。あるいはリールでやり取りする方が魚が疲れずダメージが少ない、とか…。前2つはある意味事実ですが、最後のは完全な偏見です。はっきり言って延べ竿の方がファイト時間が短く魚へのダメージは少ないと考える方が合理的です。前2つに関しては、余裕を持ったタックルで挑むという原則を守ればそうそうラインブレーク、ましてや竿の破損は起こりません。

 延べ竿の釣りは他の頁でも書いていますが攻める範囲が限られており使用する釣具がシンプルかつライトなので環境負荷はリールの釣りに比べて圧倒的に低いという点が未だあまり認識されていないようです。こういった部分はしっかり発信していかなければならないと思います。同時に、細糸や極端な軟竿でスリリングなやり取りを楽しむ、といったものは、諸条件にもよりますが基本的には控えていくような方向性が好ましいのかも知れません。それよりは太糸でいかに食わせるか、といった探求をしていくべきなのかもしれません。

 良く延べ竿の釣りは掛けるまでは簡単だが掛けてからが大変、リール竿、特にルアーなどは掛けるまでは大変だが掛けてしまえば楽、といった比較を聞きます。確かに延べ竿、特に餌釣りはアタリも多くこれが魅力の一つではありますが、アタリを多く出すためにむやみに細糸を用いて結局ブレーク…というのは避けたいものです。

 日本の延べ竿釣りの進化の最先端にある本流釣りを、世界に誇れるようなものにするためには魚や環境へのちょっとした配慮が大きな意味をもつのかもしれません。

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ヴィンテージセンターピンリールの魅力と回転持続時間の意義

 昨今LEELにおいてセンターピンリールをいくつか入荷しました。その中でも例えばラピデックスの様なヴィンテージセンターピンリールは、入荷段階ではオイルやグリスその他の汚れなどがあり精巣が必要なことも多いのですが、これをするとリールの回転がかなり変わることが多いものです。

 ここで、当然回転は「良くなる」と思われるでしょうが、時々逆のこともあるのが難しいところです。特に、JWヤングのセンターピンリールの多くは回転の滑らかさを調整する2つのネジがあり、これが意外と曲者です。1つ目は、スプール表面についているネジで、ラピデックストゥルーデックスなどであれば小さな穴があいていてそこについています。オープンスポークのピュアリストヘリテージなどは、スポークそれ自体についています。このネジは基本的には緩めておけば回転は良くなる方向に働くので単純です。

 問題は、スプールの回転軸のトップにあるネジです。これは説明書などには経年による回転の変化を調整する以外には触らなくても良いと書かれており実際そうなのですが、ヴィンテージセンターピンリールの場合はすべてばらして清掃するのでこれも必然的に一度外すことになるのです。そして嵌めなおすと、意外とどこまで締めるかが難しいのであります。

 思いっきり締めると、かなり回転が硬くなり不可です。しかし緩めにしておくと今度はスプールがガタつき逆に回転が悪くなります。スプールがガタつかず、なおかつ必要以上に強く締めないことが大切なのですが、ほんの少し回すだけで回転がかなり変わることがあるのが難しいところです。

 しかし上手くハマると、例えば入荷時10秒くらいしか回らなかったリールが30秒くらい回るようになることもあり、これはこれで面白くうれしいものです。

 ところで、センターピンリールの回転の滑らかさを、しばしば何分回っているかで計測したりしている動画がYoutubeなどにアップされています。

はっきり言いますが、1分以上はそれがたとえ2分でも5分でも殆ど意味はありません。むしろ、長く回り過ぎているリールはスプールが重く、実釣ではダメな製品であることが多いものです。

慣性の法則をご存じでしょうか。センターピンリールに求められる回転とは、如何に小さな力で回り始めるかであって、どれだけ長く回っていられるかではありません。だとすれば、慣性が小さなスプールが良いということになります。慣性が小さいということは、ちょっとしたことでも回り始めますが、回転は長続きしないという事なのです。

 英語でセンターピンに関する掲示板などがあり読んでいると面白いのですが、この事実をきちんと理解されている方は意外と少数派です。勿論、正しく認識されている方もいらっしゃいますが。

 1分以上と書いたのは、いくら慣性が小さい方が良いとは言っても、指で押すほどの力が加えられた以上は、相当に回転が滑らかであれば1分程度は回るのが普通と考えられるためです。大体現行のハイエンドモデルの新品時の回転時間がその程度でもあります。

 ヴィンテージセンターピンでは、ベアリングのないモデルも多くあります。こういったモデルは一見回転が悪いように思われがちですが実際のところ回りだしの軽さで言えば大差はなく、むしろベアリングは回転時間を無駄に長くするだけの側面もあります。

 新品ではないヴィンテージセンターピンリールでは大体30秒程度回れば十分回転は滑らかといえます。実際wallisキャストをするにしてもこんなに回し続けることはありませんし一旦流し始めれば指でドラグを掛けていることが殆どです。とにかく回りだしの軽さが大切なのです。

 また回転時間は先ほど書いた様に慣性の法則で慣性が大きい方が回る時間は長くなりますので、スプールが重い方が長く回ります。例えばラインを巻いた後では回転時間が倍近くになった例もあります。

 JWヤングの現行モデルに代表されるオープンスポークは、スプールを軽くし慣性を小さくする意味合いがあります。「一見」回転が良いように思わせるには重いスプールを作ればよいのですが(実際中国製のセンターピンなどはかなり重いです)ヤングはもちろんそんなことはしません。センターピンの本当の役割を知っている人は回転時間などには殆ど意義を見出さないのです。

 そう言う意味では、むしろ例えばガンダマのどのサイズを吊下げて回り始めるか、といったテストの方が重要です。ただ一手間かかるのと基準が分かりにくい為、未だに回転時間がどれだけ、といった話がセンターピンリール愛好者の間では多いのもまた事実です。

 LEELでも目安として回転時間を記載しているものもありますが、それは先ほど書いた様に新品なら1分程度、ビンテージなら30秒程度という大まかな目安によるもので、その秒数自体に大した意味はありません。どの機種も実釣で問題が生じることはまずないでしょう。繰り返しますが実釣では指でドラグをかけることの方が多いのですから。

 ところで回転といえば、特にヴィンテージセンターピンリールは数時間回していたり何度か釣行したりしていると回転が良くなってくることが多いです。こなれてくる、といったものでしょうか。無論ミシン油を差したりしても変わってきますがこれも差し過ぎは逆効果だったりとコツがあります。基本は軸に1滴落とす程度で十分です。

 やっかいなのは先述の調整ねじなどの締め具合でスプールがこすれるような音がして回転が悪くなったりすることがあります。わずかなずれなどでこういったことが起こるようですがオープンスポークでない限り中が見えず原因が良く分からないこともあります。そんな時もあれこれネジを調整したりしていると不思議と直ったりするのもまた謎です。

 シンプルな構造ですが、非常に奥が深いのがセンターピンリールの難しいところでもあり魅力でもあるのです。もっとも、私のように機械音痴でなければ案外簡単なことなのかもしれませんが。

 

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フロートフィッシングのライン選びあれこれ

 前回の記事でもwallis castとライン選びについて触れましたが、色々なメーカーの色々なラインを試し今のところのまとめ的なものを少し書かせていただこうかと思います。

まずノンフロート等ウキがない場合は、やはり細いPE例えば1号などはwallis castを行う上で扱いにくいです。やって出来なくはないですがいくら慣れてもバックラッシュが皆無という事にはなりません。

ノンフロートではフロロのスペーサーが最も良い結果が出ました。感度等も問題はさほどありません。視認性はある程度我慢です。ただフロロは重くどうしても沈みやすいのでいずれにしても水面から出ている部分はその後のPEがメインになると思います、とりわけ長く流すならば特にです。

 ウキありのフロートフィッシングでは、最近はスペーサーなしで1号のPEを使っています。ウキを付けるとかなり軽めのウキでもノンフロートとは比べ物にならないほどwallis castがし易くなります。従って細いPEでもバックラッシュはあまりないことが分かりました、というよりも慣れでバックラッシュしなくなりました。

 PEの先にフローティングのナイロンを数メートル付けてここにウキを固定、さらに水中に沈む部分のラインはフロロ、ハリスもフロロ。これがベストです。ただフローティングのナイロンが面倒な時はPEにウキを付けてフロロに繋げます。とにかくウキが付いているラインは軽い素材でないときちんとラインを水面から離せませんので、PEか軽いナイロン。浅いところだとPEの視認性が魚に及ぼす影響を考えナイロンを付けますが深場では気にせずPEそのままにしています。

 フロートフィッシングはウキ釣りであると同時にドラグを掛けて流す場合は脈釣り的な感度も重要で、今やPE以外を使う気にはなれません。当初は欧米に倣いナイロンを使っていましたが、水中にあるライン以外はPEがベストだと感じています。

 ただしワグラーでの釣りのようにオバセを多く出す流し方の場合はPEは不向きです。PEは張りがなく緩んでいると合わせた時に糸が張るだけでアワセが決まりません。ナイロンですとオバセが合って緩んでいる状態でもその形状のままある程度のテンションを伝えてくれます。

 よってドラグを掛けた流しではPE、オバセを作る流しではナイロンと使い分けています。もっとも、個人的にはエサ先行の重要性を信じているのであまり後者は使いません。

 それにしてもガンダマ1つでwallis castをしているとこのキャストは難しいなと思うのですが、20gなどのスチールヘッド用仕掛けを投げると嘘のようにキャストが楽なのですね。どんな投げ方してもバックラッシュしないし、キャストが雑になりそうです。最近は大錘、大きなウキでの流しをすることが多いのでキャストが下手になりそうです。たまには軽量仕掛けでキャストの練習も必要ですね。

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wallis cast とラインの種類

 前回、ノンフロート釣法でのスペーサー部分のラインの種類選びについて書きましたが、色々なラインを用意しwallsiキャストで投げ比べてみました。

 結論から言いますと、意外と張りのあるフロロカーボンラインが投げ易い、という結果になりました。以前フロロカーボンを試した際はラインがバラけて良くない印象があったのですが、商品によっても違うようです。それよりも、何度か投げて、巻いて、を繰り返し、なじんでくることも影響してそうな感触です。

 PEは非常にしなやかで小さなガンダマ仕掛けでも吊下げた際に張りを感じられ投げ易いのですが穂先への絡み(キャスト時に絡むことはないですが何かにつけて絡みやすい)とちょっとしたバックラッシュ時にしなやかなのですぐにスプールの裏に入り込みやすい点が課題だったのですが、なじんだフロロはまず、なじんだといっても張りがあるので穂先絡みが殆どない、してもすぐほどける、さらにプルをする際にまったく左手にまとわりつく気がしない、そして何より良いと感じたのは、その自重でライン自体が飛びにプラスに働いている感触です。スピニングなどのキャスティングではフロロは重いが故に飛びませんが、ノンフロートでのwallisキャストでは少しでも投げるものに自重が足されることはよいことです。ある意味テンカラやフライのキャスティングに通じる部分があると感じられました。

 あ、無論ナイロンも各商品ためしました。ナイロンは2号や3号なら投げ易いですが今回は5号クラスを基準にしましたので、このクラスになると正直少し扱いにくいと感じられました。張りが中途半端でフロロほどの重さがない為中途半端にパックラッシュやまとわりつきを感じます。ソフトタイプの物はまだましでしたが、それでも重さがない為やはりフロロの好感触には及びません。

 今回はwalls castのテストだけでしたので後はドリフトでフロロのスペーサーがどの程度使えるか試してみたいと思います。少なくとも視認性はPEに及ばないのは間違いないですが感度は許容範囲かなと予想しています。

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フロートフィッシングのライン…難しいノンフロート釣法のライン選び

 フロートフィッシングのラインには、一般的なウキ仕掛けであればフロートタイプで蛍光色の良く見えるナイロンライン、またはPEラインが良いという事は既に分かり切っています。ウキから穂先までのラインはできるだけ水から離してなおかつ良く見えた方が良いのでこのような結論になります。感度はウキ仕掛けなのでさほど必要ないのでナイロンで十分ですが長く流すとアワセがしにくくなるのでPEもお勧めです。wallisキャストをするので細いPEの場合は3号程度のPEをスペーサーに使うと良いでしょう。

 問題はノンフロート釣法及び完全フカセでのライン選びなのです。今までこのウェブサイトで紹介してきたラインは、フロロのハリス+中間ライン(数メートル、穂先の外に出る長さまで)+wallisキャスト用兼視認用スペーサーPE3~5号+PE1~2号(道糸)でした。

 このシステムは、まずフロロの中間ラインまでは変更の必要がないように思います。といいますのも、wallisキャスト時にタラシの部分はどんなラインでも問題はなく、ならば確実に水中に入る部分のこの部分は重いフロロが一番です。なにしろ流れの強い本流で行うのがノンフロートですから、ラインは重いに越したことはありません。また、少しでも重さがあるので、軽量仕掛けが多いノンフロートでのキャスト時に微々たるものですが仕掛けの重量アップにつながります。

 道糸のPEも、変える必要は感じられません。この部分は水から離れている部分であり細く軽く感度が良いPEは最適です。また、視認性もPEは優れているのでこの点からもパーフェクトです。

 問題なのはスペーサーのPEです。これは、本当ならば無い方がドリフトの点では好ましいです。といいますのも、太いPEは水より軽く、水流も多く受ける為オバセが発生しやすい為です。しかし、仮にここをなくし直接PEにすれば、wallisキャストはかなりしにくくなります。2号位ならまだしも、1号などになればかなりやりにくい、というよりもバックラッシュ時のダメージが大きいです。視認性も、この部分のラインというのは、近場を脈釣り的に繊細に攻める際によく見る部分ですので、本当ならば目印を付けたいような部分です、そういうところが細いPEというのは少し心もとない部分があります。無論、長く流した時にはもはやスペーサー部分まで見えませんので同じ事ですが。最大の問題はwallisキャストへの不向きさ、ということです。逆にwallisキャストを細いPEでトラブルレスに出来るならば、単純にスペーサーPEを外し細いPEにダイレクトに中間ラインを結ぶことは有用です。PEは確かに軽く水に浮きますが、「細い」PEを使える為抵抗はフロロやナイロンより少なく総合的に見てオバセのできやすさは細いPEが太いフロロやナイロンに勝ると考えられるためです。

 しかし実際されると感じられるでしょうが細糸PEでのwallisキャストはかなり難しいです。特に遠投する場合。となるとやはりスペーサーが必要ですが、ここをフロロにするとどうなるでしょうか。

 ここがフロロになるとまず良い点は高比重なためオバセができにくくなる、感度もさほど悪くない、といったことが挙げられます。例えばスペーサーにPEの3号を使っているのとフロロの3号を使っているのでは確かに後者の方がオバセをなくしやすいです。太さは変わらない為比重勝負になると倍近くの差がある為です。

 フロロスペーサーの問題は2つあります。1つはwallisキャストへの適性。一般にフロロは硬くラインがスプールからばらばらっとほどけるような動きをします。センターピンは大口径ですがそれでも実際巻くと分かりますがバラケやすいです。これはバックラッシュを誘発します。逆に手にまとわりついたりはしない為プルの際の左手へのトラブルは減りますが、まあ好みでしょうが個人的にはある程度しなやかなラインの方がwallisキャストはやり易いと思います。

 もうひとつの問題は視認性の問題。着色フロロは数が少なく、一部のテンカラ用レベルラインなどに使えそうなものはありますがラインナップは少ないです。船用の物は張りがあり過ぎるものが多く先述のキャストにあまり適しません。

 解決策としては、できるだけ軟らかくできるだけ視認性の良いフロロなら使えそうですが未だピッタリのラインを見つけられません。

 フロロスペーサーの問題点は実はもう一つあり、それは高比重が故により多くのラインが水に沈むという傾向にあることです。ナイロンやPEなら空中に張っている部分のラインが重みで水に触れやすくなるという事です。これはせっかく水中部分が沈みやすくオバセをなくしやすいといっても水に浸かっているラインの量が増えればその恩恵を減じてしまう事になります。もっとも、正確に計ったわけではありませんが理論上こういうことは言えるはずです。

 ではナイロンを使えばどうか、ということですが、まずスペーサーは20~25mほどとりますので感度の点が気にかかります。視認性は良いナイロンがいくつもありますので問題はないでしょう、比重はフロロほど沈みませんが先述の沈みやすさが故の弊害(水に多く浸かる)は減りますのでまあまずまずではないでしょうか。wallisキャストとの相性も無論問題はありません(太めのナイロンはソフトなものを選ぶようにします)。結局問題は感度という事でしょうか。

 というわけで、本当のところはwallisキャストをしないならば細い道糸のPEで中間ラインに直結が良いと思いますが、これができないならば明快な解には未だ辿り着いていません。今のところスペーサーにPEを使うのは例えばモノフィラメントのスペーサーでは5号や6号を張るような大物狙い仕掛けでPEなら3号や4号を使える点で、問題の軽さを相殺してくれていると考える為です。また、PEの比重も0.5などならばさすがに困りますが0.9程度あり、なおかつ淡水ですので1.15程度のナイロンとそこまで大きな差は出ない、むしろ細糸を使える分だけまし、と捉えています。そして感度の面でも最も良いのは実感します。PEは張っていないと感度が悪いと聞きますが、ノンフロートは基本的に張りますので逆に底を感じられなくなった際の問題=オバセやたるみの発生をすぐに察知できます。

 しかしモノフィラメントでも3号や4号を張る様な仕掛けの場合では、スペーサーのPE3号や4号だけが無駄に高強度で太く無駄に感じます。今後フロロ、ナイロンのラインで良い商品を探しながら代替案を探っていきたいと思います。

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海外ヘビー投竿のキャスティングテスト

 LEELの方でZUNZUNというスペインブランドの投竿を仕入れることになりまして、今回初回トライアル分が届いたわけですが、毎度のことではありますが傷モノがありこの機会なのでキャスティングテストをしてみることにしました。(今回の傷モノは一体どういう理由でついたのか分かりませんが本当に毎便無傷で来る方が珍しいのが海外輸入の実際です…)

新品のロッドはこういう事は出来ませんが傷モノの場合万が一のブランクの強度的なところを確認しておく意味でキャスティングテストは有用です。というわけでやってみました。

 

私自身、比較的軽量な仕掛けの遠投はまずまずやってきましたが、53号というヘビーロッドは正直扱いなれていません、というよりも、昔シマノ社のBXクラスの並継投竿を振っていた位です。それもかなり前の話でここ何年も投釣りからは離れておりました。

 

そんな状況なので正直この竿を振りきれるか不安でしたが、予想通り振り切れはしませんでした。

まずはこちらのロッドから試しましたが、想像以上に張りがあり、以前投げたことのある海外の某大物投げ竿はグラスが多く入っておりかなり軟らかかったのにこちらは棍棒のようなバット部分です。

さてどんな投法で投げようか、とりあえずぶら下げオーバーヘッドという最も負担の少ない、また失敗しても被害が少ない投法でスタート…最初は50号という錘に少しビビりながら60m程度、徐々に力を入れて行きなんとか92mまでは行きましたが、100mには届かず。感覚的には胴が全然曲がっていません。ちゃんとしたキャスターなら逆にかなり飛ぶのでは!?という印象でした。なおラインはPE5号です。

 

次にこちらのソリッド継穂先のロッドに。この穂先、50号を吊るすとかなりお辞儀するので、頭ではっ穂先はラインに同化するから関係ないと分かっていながらも恐る恐る投げます…。何度か投げて当然ですが大丈夫なので力を入れて行くと90m程度は出るようになりましたが先ほどのロッドよりは若干落ちるかなといった感じ。楕円ガイドの影響というよりはやはりソリッド穂先の影響でしょうか。もっとも大差はなかったのですが。しかし持ち重りはこのロッドの方が軽く感じます。

 

その後V字と回転投法もやってみようとしましたが今の私では自分が飛んでいきそうなのでやめました。全然振りきれずに右に行きぶら下げの方が飛んでいました。

 

結果、今の私ではこのロッドの実力をはかることは不可能だと分かりましたが、ブランクに問題がなく一応仕事は果たしました。

また、実釣では今回程度の飛距離でも十分なケースも多いと思いますので、海外性の大物投げ竿は振りきれるか心配…といった方でも、完全に振りきれなくてもそれなりに使えるということをお伝えできればと思います。

 

今回は少量の入荷でしたので正常品が既に売り切れましたが今後再入荷を予定しております。

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カープロッドのキャスティング大会!?

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釣りと熱帯魚飼育(アクアリウム)

 アクアリウム好きのアングラー、というのはどれだけいるのかは知らないが、少なくとも私はこれに該当する。そんなバックグラウンドをご了承頂いた上で、読み進めて頂きたいのであるが、どうもこの2つの趣味は私が思っていたほど親和性の高いものではないようであることに少々驚いている昨今である。

 というのも、魚が好きという点でこの2つの趣味の人々はかなり共通項があるにもかかわらず、お互いをあまり良く思っていない方も多いようなのである。

 いや、厳密に言えば、アクアリスト側にアングラーへの拒否反応を示される方が一定程度いて、逆、つまりアングラー側がアクアリストに対して何らかの敵対感情をもつことは少ない、より正確に言えば、あまり気にもしていないといった方がよいのだろうが、そういう状況が見てとれる。

 アングラー嫌いのアクアリストの言い分としては、食べるならまだしもリリースするだけの釣りが魚をいじめているだけにしか見えないという、釣りに興味のない一般の方から寄せられる批判とほぼ同じようなものが多い。いわば、自身のペットをいじめているようなものであるから、犬や猫に置き換えると餌のついた紐で引っ張ってきて離してやるようなものであるから(正確には針でひっかけるのであるからよりダメージはある)、彼らの言い分は至極まっとうである。かくいう私もアングラーである前にアクアリストであったから、当初食べない釣りに関してはあまりやる気が起きなかった。川魚はほとんど持ち帰り飼育していたし、海の魚は毒魚を除きすべて食べていた。

 しかし釣りを長くしていると、リリースの釣りも悪くないなと思えるようになってきた。というのも、きちんと配慮をすればリリース後の生存率はかなり高いことは実証されている上に経験的にも明らかであるし、そもそも釣り上げた魚を家に持ち帰り飼育してもほとんどすぐ死ぬなどという事はない。リリースが難しいのは相当の巨大魚や特定の魚であって、きちんとした配慮がなされた場合、魚への死活的な問題は起きにくい。

 それでも魚への負荷をかけていること自体は事実であって、間接的に傷口からの感染症のリスク等を通じて生存率を下げているのは間違いない。本当に魚の事を想うなら釣りなどしないのが一番である。

 だが、これはアクアリウムにも言えることであって、本当に魚を想うなら水槽に閉じ込めておくべきではないし、それが完全養殖の個体であり、そもそも自然に放せない個体であっても、水槽飼育を肯定することはできない。水槽飼育には間接的に無駄なエネルギーがかかり環境負荷がかかっているし、養殖行為そのものも同様である。流行の水草水槽やサンゴ水槽などは特に電気代などコストもかかる。コストがかかるという事はイコール環境負荷が高いということである。

 結局のところ、アクアリウムは間接的に、リリースの釣りは直接的に魚や環境に負荷をかけているのであって、前者は一見魚をいたわる為の行為が負荷となり、後者は明らかに魚にダメージを与える行為によって負荷をかけているのである。そして、古今東西、人間の性である、目に見えるものを過大評価し、目に見えないものは過小評価するという原理の下で、前者よりも後者が多く批判にさらされているのだろう。

 少し意地悪な見方を加えれば、水槽で維持されている魚というのは人間を楽しませるだけで一生を終え、生態系的にはなんらの意味も持たないままの生物である。土に埋めてもらえた魚はよいが、ゴミ箱に入れられた魚は自身の命を何ら繋ぐことなくその生涯を終える。一方、下手な釣り師によって殺された魚は、水鳥や微生物に命を繋ぐことはできるかもしれない。

 それでもアングラーを毛嫌いするアクアリストは、いわゆる動物愛護的思想の強いアクアリストではないだろうかと想像する。生理的に、魚がいじめられているのは耐えられないという人々であり、これはこれで一つの思想であるから善悪を判断はできない。ただ、私の属する、生態系への理解と愛着をベースとするアクアリストとは、同じアクアリストでも少し考え方が違うのだろう。

 さらに究極に自然や生態系や種を愛する人からすれば、アクアリウムも釣りも共に悪であろう。どちらも間接的、直接的の違いはあれど生態系や自然環境に負荷をかけているのは間違いない。そしてきっと彼らは山奥で自給自足の生活をしているに違いない。間違っても、都市部の高環境負荷な生活を謳歌していることはないだろう。いや、枝1本おるのも怖いから、コンクリートジャングルでの生活をしているのだろうか?

 私は少なくとも、アクアリストとアングラーは手を繋ぐべきだと考えている。この両者が仲たがいをしているようでは、もし本当に魚や自然の大切さを知りそれを広めようとしているのならば、戦うべき相手は椅子に深く腰掛けたまま無機物に囲まれ字と画面の上でだけ自然「保護」を唱えるような人々であり、屋内か屋外か、接し方は違えど少なくとも日々魚に接し、その美しさ、その大切さに触れているようなお互いではない。私自身、一アクアリストとして、本命以外の魚に目もくれず外道を蹴飛ばす様なアングラー(といってよいのかは知らぬがそういう人)に対して思う所がないわけではないが、全く自然と触れ合うことなく生きる人よりは、いつか本当の魚好きになってくれるはずだという確信、いや、希望はある。アクアリストやアングラーが自然に恩返しする形とは、人工繁殖による種の保護への貢献や生息地の保護といった具体的なものよりもむしろ、常に魚を通じ自然に触れている、ということそのものではないだろうか。人は常に触れているものを、壊してしまおうとは思わないものであるから。

 

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新年のご挨拶、と新しいモンスター用本流竿の開発…

 新年明けましておめでとうございます。

今年もニッチな竿をどんどんリリースしていきたいと思っております。

 

さて、最近リール竿の話ばかりでしたので本流竿の話を少し。

もちろん本流竿の開発、テストもずっと並行して行っております。ただまだまだ時間はかかりそうな状況ではあります。6号ラインクラスのヘビー級本流竿とする予定ですが持ち重りについてできるだけ軽く振り込めるようなバランスとする為に調整と検証が続いています…。

 

鮭竿はどんどん適合ラインが太くなり剛竿化しているように思いますが、果たしてこの流れはどうなのでしょう…?本当に竿が強くなったのか、表記が変わっただけなのか…。個人的には適合ライン自体にあまり意味がない様に思いますが、本当に太糸を使用する流れが加速していると見るならば、それは魚にとって悪くない流れだと思います。

当サイトでも、延べ竿の釣りは掛けたら獲るという事を大切にして頂きたいとしていますが、それはラインブレイクによる魚へのダメージを防ぐためであります。

細糸でのスリリングな釣りを否定はしませんが、魚にとっては、いや正確には環境にとっては、太糸で確実に獲られる方が好ましいのは事実だと思います。

 

というわけで、よりヘビーな竿を、となるわけですが…同時に延べ竿の釣りがより多くの人に楽しんでもらえるには、あまり修行の様な釣りばかりでもいけないわけで…そうなると軽い竿、ということになります。

軽さと強さは二律背反ですが、どこでバランスを取るか…まだまだ検討は続きます。

 

 

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フロートロッドでのルアーキャスティングと飛距離

 フロートロッドは本来ルアーロッドのようにフルキャストで遠投をすることを求められませんのであまりキャスティングには向かないロッドが多いのですが、POLE&LINEで現在開発中の14ft5ピースフロートロッドはロングルアーロッドとしての使用も考慮に入れている為ルアーキャスティングでのテストも行っています。

 プロトで以前行ったテストでは

18gインランドキャスティング用プラグ:74m(このプラグは、競技では投竿+スイング投法で100m以上飛ぶプラグです)

18gシマノ製ラバープラグ:73m(同上)

DUELバイブレーション(20g程度):59m

シマノ オシアミノーヒラメスペシャル115F:57m

7.5gインランドキャスティング用プラグ:42m(このプラグは、競技ではシングルハンドの円盤投げ投法で70m程度飛ぶプラグです)

という結果でした。

リールはシマノ3000番、ラインPE1号で、陸上でのメジャーによる実測です。

左右若干斜めに飛んだ場合でも正面での距離の計測ですので直線距離ではもう少し飛んでいるのでしょう。

 

このテスト時は風があり追い風や横風があったのと、ラインの巻量が少なかったためあまり良いテストではありませんでしたが、とりあえずの参考にはなるかと思います。

 

14ftということで、本来ならばもっと飛んでもよいと思われるかもしれませんが、陸上での実測は普段の釣り場よりもシビアな結果になります。普段の釣りでのライン放出量は糸ふけがどうしても出て、それは遠投すればするほどそうなる為です。

 

こういう飛距離テストをする際、私は基本的にインランドプラグを良く使用します。

といいますのもこのプラグは競技で使われている為、その正確な限界飛距離が分かっているからです。

ルアーはメーカーのカタログの飛距離もどんな投法なのか分かりませんし、どんな人が投げているのかも分かりません。

18gプラグは、投げ竿とスイング投法で100mオーバーが限界飛距離です。ラインはナイロン2.5号に力糸としてナイロン5号です。

無論これは訓練をした競技者が投げてのものですので、私を含め普通の人が普通のルアー投げをして「良く飛んだ」と言えるのはこの7割~8割が基準だと考えます。つまり、80mオーバーです。尚無風条件です。

 

このように見ますと先のテスト結果、おそらく無風であれば18gプラグは60m台前半程度でしょうから至って平凡な飛距離です。お世辞にも「良く飛んだ」とは言えません。

 

理由はおおよそ見当がついています。

1.ガイド数が多すぎる、ガイドの数が小さすぎる…14個付いてますし先端は6mmガイドばかりです。

2.ティップが軟らかすぎる…あくまで遠投を目的にすれば2mm以上のショアジギングのロッドの様な竿が理想です。なぜなら、穂先がキャスターのパワーを吸収しダイレクトにプラグに力と初速を伝えにくくなるためです。

3.全長が長すぎる…一般に遠投にはなによりも初速が第一、そして人間が振りきれる竿の長さのベストはおおよそ3m台後半です。これはインランドキャスティング競技者のロッドを見ても分かります。よりヘビーなサーフ系のキャスティングでは4m台も用いられますが、軽量プラグはとにかく初速が重要、そして初速を出すには竿の反発うんぬんよりもとにかく速く振る、これが大切ですから4m以上の長竿はよほどの怪力でない限り振りきりが遅くなり向きません。

(※確かに長竿ほど「短竿と同じ速度で振れば」ティップの速度は速くなり遠投に有利ですが、「短竿と同じ速度で」振ることは不可能でデメリットが勝ってしまうのです)

4.全体にしなやかすぎる…遠投だけ考えれば殆ど曲がらない棒のような竿の方が飛びます。上述の通りです。

5.継数が多い…一般にマルチピースロッドは飛びにくい、とされていますが、正直なところ昨今の製竿技術ではここはあまり差が出ないところだと考えます。

 

こう考えると、フロートロッドって遠投とは真逆のポジションにいる竿なのですよね。

フロートロッドはロッドパワーをしっかり引き出し官能的に魚をいなすためしなやかなければならず、また安定したドリフトの為に小さなガイドを多く必要とし、ラインメンディングの為に全長が必要で、感度と食い込みの為に穂先はソフトであらなければなりません。

全て遠投には不向きな要素です。

その中で先のテスト結果を見ると…善戦していると思いませんか!?

おそらく、フロートロッドの中ではかなり飛んでいる方だと思います。5ピースにも関わらず、です。

これはフロートロッドでありながらバットパワーを持たせ、ガイド数も14個と多いながらもフロートロッドとしては必要最低限に抑えスピニングにも対応するような種類と配置にしたことが大きいと考えます。

 

そしてこのフロートロッド、確かに単純な最大飛距離でショアジギングロッドやシーバスロッドの硬めのものには及ばないでしょうが、とにかく「楽に飛ぶ」のです。しなやかに曲がりこむので振りきり速度がゆったり目のキャストに適しており、キャスターの振りきり速度ではなく遠心力とロッドの反発力で飛ばすキャストに向いています。つまり、6割程度の力で投げてもマックスで投げた時の飛距離とあまり差の出ないキャストができるタイプの竿だという事です。これは悪い様に言えば最大飛距離が伸びにくい竿という事ですが、競技ではなく実釣では圧倒的に楽なタイプの竿です。

 

また機会があればよい条件下でより詳しい飛距離テスト、また他のロッドとの比較等も行いたいと考えています。

 

 

 

 

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POLE&LINEテスター/アドバイザーに怪魚ハンター、イバノ・パラディシィ氏を迎えました

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センターピンリールのキャスティング。BC swing キャストと wallis castのバリエーション

 センターピンリールのキャスティングとして当サイトではノッティンガム、wallis、そしてサイドキャスト(サイドスピニングキャスト)の3つを紹介してきましたが、北米で良く用いられるBCスイングについてもそろそろ少し触れないといけないかなと思い始めています。

 といいますのも、このBCスイングは10g以上の錘であればwallisよりも手軽で、なおかつ(右利きの場合)右側しかスペースがない状況でもキャストが出来るのが利点です。

センターピンリールをいわばマルチプライヤーに見立てたキャスト方法で、バックスイング後半からリールはフリーにしておきフォワードキャストでしっかりリールが回るようにしておくのがこのキャストのみそです。当然軽い錘ではリールが回らず飛びません。したがって英国のトロッティングの様な釣りでは用いる場面はないでしょう。大仕掛けのスチールヘッドの釣りならではの発想ですね。

 私自身はBCは以前から知ってはいたものの10g以上の錘をあまり使わないのでチャレンジせずにいました。しかしセンターピンリールの釣りの門戸を広げる意味合いで、大錘を遠投可能なキャストとしてサイドスピニングキャストよりも手軽でなによりラインのヨレが生まれないという絶対的なメリットがあると言われるBCキャストを避けては通れなくなってきたのです。

 実際試してみて、10gの本流スティックシンカーではおおよそ20m弱の飛距離、思ったほどは飛びません、海外のフォーラムでは50m近く飛ぶという意見もありますがこれはもっと重い錘でしょうが。それにしても10gで20m弱ではwallisキャストと変わりません。まだまだ研鑽が必要なようです。

 wallisキャストは軽く自力で飛ぶ力が少ない錘をいわば手でリールに勢いを付けてあげる投げ方ですので基本的には軽量仕掛け向きなのです。実際やってみるとお分かり頂けるかと思いますが例えば20gなどの錘をwallisキャストするのは少し違和感があります。やって出来なくはないですが。

 wallisキャストの真骨頂は、ガンダマ数個などのごく軽量の錘を、スピニングで投げても飛ばない様な錘を、それなりに飛ばせるという事にあります。例えばノンフロートでガンダマ5B2個、餌はキジのようなセッティングでも、15mくらいは飛ばすことができます。これは他のキャスト方法では、ノッティンガムを3つの指を使えば可能ですが手間とトラブルの無さらかして圧倒的にwallisに軍配が上がる事でしょう。

 そのwallisキャストですが、よくYoutubeなどに出ている動画と当サイトで紹介しているやり方が微妙に違うのではと思われるかもしれません。はい、実際違います。原理は同じですがバックスイングの位置、振りの角度などはかなりのバリエーションがあります。modified walliscastといったものもあります。ただ原理は全て同じで、要はpull castと呼ばれることからも分かるように、左手の引きでBCのように投げても回らないリールを補助的に回してラインを出してやりながら投げるという事なのです。

 当サイトで紹介しているスタイルは完全に水平のサイドキャスト方式で、なぜこれを紹介しているかというと振りの面が平面で分かり易く、最初に原理を覚えるには最も適していると考えているためです。実際には、要はpullがあればこのキャストは成立しますから、断面をスリーうウォーターにしたり振り子の様なアンダーハンドにしたり、あるいはオーバーヘッドもできなくはありません。サイドキャストは高さがない分極度の遠投には不向きなので、より飛距離を求める場合はスリーウォーターがお勧めですがまずはサイドで仕組みを理解してからの方が良いと思います。

 また立ちこんでの釣りならまだしも、土手からの釣りで左右後ろを草木に囲まれwallisが出来ない、というケースもあるでしょう。しかしそんな状況でもwallisは可能なのです、具体的には左肩のすぐ後ろくらいで仕掛けをぶら下げそこからアンダーハンドで投げるように小さくシャープなストロークで投げつつpullを小さく斜め下に行えば、アンダーハンドの、バックスイングなしのwallisキャストの出来上がりです。ノッティンガムをやるよりはスマートです。

 なお軽量のガンダマ仕掛けでなおかつこういったアンダーハンドでやる場合は左手のガイディング(輪っかを手で作りラインを収束させていくこと)はあまりきっちりやるのではなく最後まで緩めにリールから離したままにしておく方がトラブルは少ないでしょう。軽量仕掛けではさほど勢いがないのでガイディングをきっちりしすぎるとラインの勢いを止めてしまいがちなのとラインをリールに近付ける際に収束がうまくいかずバックラッシュしたりすることがある為です。

 センターピンリールの釣りの最大の難関はキャスティングであるとは思いませんが、かといってキャスティングが容易なリールでもありません。そもそもこの釣りにキャスティングはさほど意味をなさないのではありますが、それでも多くのセンターピナーがキャスティングにこだわるのは、最初の投入地点が流れの筋から外れていると数十メートル流した後の軌跡が随分違ってくるからです。50cmの違いでも、それが沖に出る流れに乗るか乗らないかの境目であったりします。だからこそ、この飛ばないリールでいかに飛ばすかを皆が考えるのです…。

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ビーズフィッシング

スチールヘッド、ニジマス釣り用ビーズ(トラウトビーズ)
スチールヘッド、ニジマス、雨鱒釣りにイクラカラーのビーズ

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フロートロッドのパワー

5ピースフロートロッドのプロトタイプで釣られた鯉
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ガイドの話

 竿を扱っていると当然竿を検品する機会があります。竿のブランクは容易に観察できますが、リール竿の場合、最も厄介なのがガイドです。ガイドリング、フレームは小さく形が複雑で老眼だと見るのが大変です。フィーダーロッド等ガイド数が多い竿はもう勘弁して~となります。50mmバットガイドの大口径のカープロッドなどは比較的楽です。でも意外とガイドリングの破損や傷はバットガイドが最も多いのです。大きい分衝撃を受けやすい…?

 富士山の、いえ富士さんのガイドは価格も相応にしますがやはりとても優秀だと思います。海外のロッドはサードパーティーのガイドを使用しているケースが多いのですが、LEELでも偶にアウトレットで出したりしていますがガイドが割れているロッドなんてのが時々あります。富士さんのSiCなどでは例え同じように海外から仕入れても普通ありませんね。しかし海外のガイドのものはそういうことが時折あるのです。

 どういうシチュエーションでどういうタイミングで割れたりするのかは不明ですが、とにもかくにも割れるのです。しかし一方で、個人的にそういう海外のロッドを使っていますが使っている中で割れてきた、というのはあまり経験がありません。やはり瞬間の衝撃によるのでしょうか。輸入貨物の取り扱いというのは想像以上に「荒い」です。

 海外メーカー等は普通に「SiC」と表示していてもサードパーティーの物であることも多いのですが、ぱっと見の見た目では分かりづらいこともあります。しかしFujiの記載がないのでフレームを見ればすぐに分かります。そして、フレームを仮に見なくても、リング自体がよーく見ると少し粗いので分かります。

 一方、富士さんのガイドでも海外向けのアルコナイトなどのガイドもあり、メーカーカタログにでかでかとFuji guides 採用、と書かれているので当然SiCだろうと思っていたらアルコナイト、といったことも結構あります。アルコナイトとSiCの比較は、並べてみれば良く分かるのですがどちらか片方しかないと最初は分かりにくいかもしれません。アルコナイトは黒くリングが太いのが特徴です。SiCはより鏡面っぽく、スリムです。

 アルコナイトはSiCの下位の位置づけですが使用していてあまり違いは感じにくいかもしれません。日本のロッドほど本物のSiCが贅沢に使われている国はないと思います。最近ではかなりのエントリークラスにもSiCが装備されていますね。

 延べ竿ばかり見ていると、リール竿の構造というのはブランクのパワーを純粋に活かしているのか、良く分からなくなる時があります。ご存知の通り延べ竿は穂先にラインが直結されており、穂先から極めてシンプルに力が下に降りて行きます。一方のリール竿はガイドというブランクの「そば」の物を介してラインがブランクを引っ張る構造で、純粋な意味ではブランクの動きが100%再現されるわけではありません。とりわけガイド数が少ない場合は尚更です。

 個人的にはリール竿で最もやりとりが楽しいのは中通し竿ではないかと思いますが、これはやはり動きが延べ竿に近くなるからであると思います。一方で中通し竿は多くのデメリットもあり、今ではとりわけキャストを要する竿においては支配的ではありません。中通し竿や延べ竿に近い外ガイド竿はやはり多点ガイドとなるわけで、そうなるとガイドの良しあしの影響が大きく出て来ます。

 ロッドの原価のかなりの部分をガイドが占めているのは周知の事実ですが、やはりガイドはロッドの付属物でありながらキープレイヤーでもあるのです。

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5ピースフロートロッド、FLOATANIAニュープロトのテスト

5ピースパックロッドのフロートロッド、floataniaのニュープロトと鯉
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ヨーロッパオオナマズ/怪魚/GT用パックロッド、エクエスに関するよくあるお問い合わせと追加説明

ヨーロッパオオナマズ、怪魚、GT用パックロッド エクエス
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エクエスのスピンオフ!?

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ヨーロッパオオナマズ、怪魚、GT用パックロッドEQUES、予定よりも早くリリースにこぎつけました

エクエストラベルバディ、ヨーロッパオオナマズ・怪魚・GT用パックロッド
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ヨーロッパオオナマズロッド、まもなく。そしてフロートロッド。

 かねてより当サイトでも紹介しておりましたヨーロッパオオナマズ用3ピースパックロッド、エクストラベルバディ

現在鋭意生産中ですが、当初予定よりは若干早くリリースできるかもしれません。


 昨今の欧州でのヨーロッパオオナマズ釣りの人気は高いものがあり、様々なロッドが彼の地でもリリースされていますが、エクエスはニッポンのモンスターロッドとしてこれらを凌駕するクオリティだと確信しております。


 これに加えて新たなトラベルバディシリーズとしてのフロートロッドも新ブランクを開発し再テスト。当初のサンプルが胴調子すぎたため再度のブランク開発となったわけですが、これがかなりナイスなブランクに。細身ながら2kgのリフトをしっかりこなし、モンスターサーモンやスチールヘッドにも耐えうる良い調子になって来ました。カナダやアメリカの胴調子系では無く、欧州の先調子マッチロッドの良いところを取り入れたまさにニッポンのフロートロッド。ノンフロート釣法にきちんと対応でき、想定外の大物にも余裕をもったバット部で対処できる…本当によいブランクになりました。これからガイドを付けてフィールドテストへと進めます。

フロートフィッシング、ルアーフィッシングの両方に対応するためこれから多くのテストが待っています。まだ先は長いですが、確実に良いロッドへと近づきつつあります。こちらも、乞うご期待!

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「フツウ」と「個性」

価値相対主義の影響かは知らぬが、「個性」の尊重が声高に叫ばれる時代が世紀末ごろからあったように思う。現代でも、基本的に潮流は”そちら”の方向で変化はしていないと見えるが、いかがだろうか。

 

さて、「個性」と対極にあるのが、標準化されたモノとしての「フツウ」だろう。

 

かつての日本社会では、いや、多くの先進国と呼ばれる国々でも多かれすくなかれ、これは経験しているはずだが、「フツウ」に標準化された勤労者たちが効率のよい組織社会を形成し、経済成長に寄与してきた時代があった。


「フツウ」は集団全体の利を考えればもっとも合理的なシステムである。考えてみればよい。自動車の燃料機関に於いて、各々のパーツは見事に標準化され、エラーなく規則どおりに動く。もしも各々が勝手な方向を向き動いたとしたら、燃料は漏れ車体は暴発的爆発により吹き飛んでいるに違いない。


組織も大きな目で見れば燃料機関と同じである。


今でこそ、社員や社会構成員各々の自発的・創造的な活動が新たな価値を生む、などと綺麗ごとが流布されているが、かつては各分野に分業された人材の機械的統合で日本を含めた多くの先進国は物質的豊かさを作り上げた。


「自発的、創造的~云々」などというフレーズは、第三次産業をベースとした、いわば物質的には相当満たされた上でのビジネスモデルに、辛うじて適用されるもので、所詮第一次・第二次産業ベースの成長には、やはり標準化された「フツウ」の機械的統合組織がもっとも有効であることに異論は少ないだろう。そして、今のところ、多くの発展途上国もこの轍を通ることを避け切れていない。


しかし、この「フツウ」による標準化モデルには、「フツウ」化により歯車と化される個々への配慮などは微塵もない。故に、昨今の先進国では、これに対するアンチテーゼとして、「個性」重視の創造型ビジネスモデルなどがちやほやされているのであろう、しかし、戦後の焼け野原において、最初からこのモデルを採っていたら、おそらく今の日本の物質的豊かさは存在しなかっただろう。


あくまでこのモデルは、ある程度成熟した社会、産業、経済の上に成り立つものである。というのも、「個性」モデルの生産力は「フツウ」モデルにはるか及ばないし、更に言えば、「個性」モデルでどれだけ優れたアイデアや企画が出ても、実際にモノを生産するのには「フツウ」モデルが極めて最適な大量生産が必須であるからである。

 

逆に考えれば、成熟した先進国では、「フツウ」な人材によるマスプロは人件費の安い海外に任せれば済む話で、「個性」を云々かんぬん言える一種の”余裕”あるいは、「フツウ」の不必要性が生じているだけなのかもしれない。


先進国の個々人は、「個性」を尊重されて一見幸せそうに見えるが、実際のところは幸せの恩着せのような一面もある。

 

「個性」を大事にといわれながら、現実社会には、あらゆる「個性」を許容する能力も、心構えも、そもそもその意思も、実は微塵もない。排他的な個性、攻撃的な個性、内向的な個性、非生産的な個性、これらはすべて、「個性」は大事と言う社会で「個性」としてすら認められず、単なる「欠陥」として扱われる存在であり続けている。


「個性」尊重社会は、明るい、楽しい、協調的な「個性」限定の、いわばセミオーダー的選択論であって、決して純粋な価値相対主義的多文化社会とは異なる。


そんな中、どれも似たり寄ったりなオプションのうちで、自らの「個性」を身につけていかなければならない先進国の個々人は、あらかじめ標準化された「フツウ」に準拠しさえすればいいかつての社会の個々人より、いわば生きるハードルは上がっているのかもしれない。


本当の「個性」を出せばそれは社会には受容されない、しかしなんらかの「個性」を出さないと生き残れない。そんな中で、先進国の個々人は、半ば嫌々に決められた少ないオプションのカタログをめくりながら、仕方なく”ましな”「個性」を購入するのである。

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過ぎ去りし日は穏やかであった

人はしばしば過去を懐かしみ、懐古主義に走る。

 

今を憂い、未来は更に憂い、過去をあたかも栄光の日々のように捉える。

 

思うに、其処には2つの不可避な作用が働いているようだ。

 


一つは、記憶の美化作用であろう。心理的防御策として、人はいやな記憶を一定程度抹消する作用を有しているようである。もっとも、酷く過酷な記憶を得たときはトラウマとなって増幅作用する場合もあるようだが。

 

 

 

過去の日々にもおそらくは数多の苦痛と苦難があったに違いない。

 

しかしながら、この抹消作用によって過去は少なからず美化を受けている。

 


もう一つは、過去は確定しているという事実からの安心感であろう。

 

過去に苦痛や苦難があったとしても、それはあくまでも過ぎし故に既知のことであり、しかも、今こうして回顧している余裕があるということは、致命的な苦痛や苦難では無かったということの証明でもある。

よほどの災難や苦難を背負っていない限り、過去は今をそれほど侵食しない、安全な既知の事実の連続なのである。そして、単純に既知であるゆえ親しみを持つ。


一方の今や未来は非常に流動的かつ不確定であり、我々の制御下に無い。故に不安を覚え、既知でないが故に親しみを持てず、嫌悪感を生じせしめる。過去に思いを馳せる時、人は束の間神になったような気分になっている。即ち、事象の全て、事の顛末全てを知っている、全知全能の神になれるのは、過去に思いを馳せる時以外に有り得ない。


そんなよい気分になれる過去に、人はいつも惹かれる運命にある。幾ばくかの苦き想い出がある方も多かろう。しかし、しばしば苦さの中に甘さがある。過ぎ去りし日は、穏やかであったのだ。少なくとも、今の見地から見れば。

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不安定、故に夢あり

私がかつて学生だった頃に、とある教師から聞いた言葉がある。

 

その方曰く、教師になるのは夢だったが、実際に合格通知を手にした際、嬉しさと共に、一種の喪失感があったという。彼女はその理由を、就職以前は無限にあった就職選択先が実際に教師という一つのものに決定されたことで、他のあらゆる可能性が消失したことによるものだと続けた。

 

事実、夢とは、不確定ゆえに存在するといってよい。

 

これは、ダブルミーニングとしての表現である。

 

即ち、夢の成立要件に不確定さ、不安定さがあるということ。そして、もう一つは、夢そのものに不確定性、不安定性があるというもの。


まず一つ目の意味としての夢の不確定性から考えてみよう。

 

とある状態に憧れ渇望したとして、それが現実のものとなったとき、もはやそれは夢ではなく事実となる。夢とは、現実の対岸に存在しなければならない運命にある。

即ち、夢は「そうなるかどうかわからない」不確定の状況でなければ夢でありえない。


冒頭の教師の話も、主にはこの意義で夢の消失が起こったといえる。

しかし、彼女の言説で着目したいのは、夢の現実化による消失というこの意義よりもむしろ、「他のあらゆる可能性が消失したことによる」喪失感、夢の消滅である。

 

夢が現実化することによる夢の消失は、極めて単純化された思考で考えれば、むしろ言葉上の遷移でしかなく、これが即ち多大な喪失感を生み出すとは帰結しにくい。

 

もちろん、心理学的にバーンアウト現象などの類似現象は認められようが、必ずしも生じる現象ともいえないであろうし、夢の現実化は達成感を生み出すという方が一般的に認知されやすいというものだろう。


そこで、他の可能性の消失による喪失感が問題となる。

 

これは即ち、可能性と夢の関係を表していると考えられる。


可能性と夢。これは、先述の夢と不確定性の2つめの意味である、夢そのものに不確定性、不安定性があるというフレーズに関係している。


夢とは、実は明瞭な輪郭線によってはっきりと認識できる未来予想図ではなく、むしろぼんやりと、時に流動的でどのようにも変化しうる、極めて不確定かつ不安定な存在である。人がある夢を描くとき、其の細部まで描くことは稀である。それはもはや計画やプランと呼べる類のもので、そこまで描けるときそれは相当の実現可能性が担保されていようから、もはやそれは夢から現実へと遷移途中にある、「半夢」とでも呼べる状態にある。


人が夢と呼ぶものは、かなり実現可能性に疑問符が付いており、故にその細部まで描きたくても描けないものである。そして、人の夢は時間の経過や心理変化などにより極めて流動的に変化する。この意味で、夢はそれ自体が不確定で不安定なものである。


しかし、更に進めて、実は夢とは、あらゆる可能性が仲良く同居している、悪く言えば極めて不安定な状態そのものを言うのではないかということも出来る。

 

話を戻して冒頭の教師の言葉にもある、「あらゆる可能性」が存在している状態、これこそが夢そのものではないだろうか。


冒頭の教師について、教師になるということは確かに夢であったのだろうが、それは夢の代表であって、他のあらゆる可能性を完全に打ち消すほどのものではなかったのかもしれない。実際、人はある夢を描きつつも、100%の自信と確信を持ってその夢が全てといえる人は少ない。

 

どこかで、別の可能性や、其の夢が現実となったときに起こるであろう不安や心配を抱えながら、淡い夢を描くものである。


そんな中で、どの可能性も実現していない、あらゆる可能性が存在している状態は、不安定で居心地の悪い、まるで思春期や青春の代名詞のような時期であろうが、多くの人がこのような時期に苦くも甘い顧みを行うように、かえって至福のときである場合があるように思う。

 

本当の夢とは、全ての可能性が燦燦と輝きながら宙を浮くような、そんな状態にこそ存在するのではないだろうか。その意味でも、子供には夢があり、極めて言えば、生まれたての赤子は最大級の夢に包まれているというのは正しい。

 

そうならば、人が夢の実現と呼ぶ、特定の状態の選択、現実化は、二重の意味で夢の消失である。

 

一つは、先に言葉上の遷移、言うならば言葉遊びと揶揄できよう意味の上で。

 

もう一つは、不安定という真なる夢から転げ落ち特定の状態(現実化された夢)に落ち着くという、少し逆説的な意味の上で。

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すべては道連れに…

一億総中流等という言葉はもはや過去のものとなり、昨今では格差社会は叫ばれて久しい。

しかし、それでも世界的に見ればこの国は中流の王国であり、なにより、そのメンタリティが均等性を求める性質を強く有しているように思われる。


みんなが平等に、みんなで手を取り合って…というとかなり胡散臭く感じるかもしれないが、言い方を変えれば、他人と同じ位に、他人がそうしているから、といった思考回路は、誰もが自覚する所であるだろう。


これはよい部分もあるのだが、悪い方向にも働く。とりわけ、出る杭は打たれるという、昔ながらの格言が端的にその副作用を現している。


自分が抜け出すのが無理なら、抜け出す他者の手を取り引きずり込めばいい。

 

更に頭を押さえて沈められれば尚良い。


そんな意識が、あってかは知らぬが、傍から見ればそういう状況は、確かにしばしば目にする。子供の優等生虐めに始まり、社会人に於いては出世の速いエリート批判のみならず自由人叩きや独身貴族叩きなど、多くの場面でこういった状況は普通に見られる。

 

自分の隣に成功者が居るならば、その成功者を超えるほどに成功を目指すのを正の競争とするならば、こういった足の引っ張り合いは負の競争と呼べる。その裏には、もはや隣の成功者を絶対に超えられない諸般の事情が存在する。


ある人が壮大な夢を描いたとして、多くの他者は無理だ無理だと五月蝿いばかりに騒ぎ立てるだろう。本当に無理だと思っているならば、黙ってそうしておけばいいものを、あたかもその挑戦者の気力を削ごうとするかの如くに、必死になって無理だコールを続けるのだ。


そこにあるのは、無謀な挑戦者への親切心などではなく、もしも挑戦者が成功したら自身は絶対に超えられないほどの成功者になってしまうという危機感、それを未然に防ぎたいという意識そのものだろう。


様々な事情から溜まり場に溜まっている人々は、そこから荒れ狂う滝を登り上流を目指す者の足をとにかく引っ張ることに躍起になる。自身が見たこともないような別世界を、誰もが見ずにその生を終えるのならまだしも、一人抜きん出てその異世界を経験するなどということは、断じて許しがたいのである。


彼らは挑戦者が発する「やはり無理だよね」という言葉を、手薬煉をひいて待っている。その一言で彼らの絶対的敗北感は遥か彼方へ遠ざかり、暖かな安堵の日差しが差すのだろう。

 

それでも挑戦者が一歩を踏み出そうものなら、彼らはその足を力の限り引っ張ってその一歩を阻止するだろう。溜まり場人生への道連れを、何としてでも強制するだろう。

 

それを振り払えたものだけが、最大最高の賭けに出る権利を手にする。ここで成功すれば、かの溜まり場は自らの糞積場になるだろうし、逆に失敗すれば、自身が彼らの糞積場に身を置く事になるだろう。


みんなが手を取り合って笑える世界など、空想の産物であることは分かっているが、仮にそれが存在するならば、それはかの溜まり場世界の美化、それもかなり無理やりな、

であろう。みんなで手を取り合っているのは、そこから抜きん出ようとする者をすぐに引っ張る為の、実に見事な隠れ戦術であったのだ!


この負の競争に、違和感を覚える人は少なくないはずだ。そう思いたい。

 

いや、一方で確かにこういう形の負け回避もあっていいのかもしれない。しかし、しかしである。なんだか釈然としないのは、青臭い美意識がそうさせているのだろうか…?

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希少な「一人」

人は必ず一人で生まれ、一人で死ぬ。

 

あの世とこの世の間の旅路は、いつも一人席に座っている。

しかし、少なくともこの世に居る間に、人はどれだけの時間、一人で居ることができるだろうか。


この過密化した社会に於いて、一人で居るということは極めて困難である。

 

ここで言う一人で居るとは、他人の目に触れず、自身の発する声も誰にも聞かれない状況である。いわば、誰の目も気にせずに過ごせる状況である。

 

いわゆる、人間関係の希薄化による「孤独化」は進んでいようが、この、文字通り、一人で居ることは相当に難しい。


おそらく都心部の家庭を持った社会人が一人で居られるのは、トイレか寝室くらいしかないだろう。いや、寝室にしても、配偶者を持った多くの場合は一人で居ることは困難だろう。一歩外に出れば、一人で居ることは事実上不可能である、駅の並んだ個室のトイレに入ったところで、薄い板の隣には同志が居るのだから、これはもはや一人で居るといえようか。だからといって、家のトイレで何分過ごせようか。これを、一人で居るといえようか。


典型的な家庭持ちのサラリーマン男性を想起すれば、彼が完全に一人になれるのはある休日、妻と子供が外出している時間だけである。

 

それは一ヶ月の間に何時間あるだろうか。ともすれば、殆ど皆無の人も居るだろう。


かつて過密性は暴力を引き起こすという論があったり、またそれを否定する論があったりと、とにもかくにも、現代社会の過密性はいつの時代も注目に値してきた。

 

過密性は本稿の中心である、一人で居る時間を間違いなく減少させる。

 

エレベーターや繁華街での文字通りの過密性は、それはそれでまた特定の影響をもたらすのであろうが、人口増加と住居密集によるマクロ的な過密も、一つには一人で居る時間の減少を通じて我々に少なからざる影響を及ぼすことは推測できる。


様々な文化・社会的な拘束を受け、様々な行動や言動に制約がかけられている現代社会において、他者に見られている時間は自己アピールの好機であると共に相応のストレスを

受ける時間でもある。

 

一人で居る時間が少ないということは、文字通りリラックスした時間が少ないということに、少なくとも一側面としては帰結するだろう。


一人で居るというのは、太古の時代に於いてはある意味で危険な行為であったことだろう。

 

敵に襲われるリスクも大きくなるし、何をするにしても他者の協力がないということは不安材料ではある。


しかし現代社会に於いて、このような危険は殆どなくなった。

 

それよりも、一人で居るということのメリットが顕在化してきたように見える。

 

誰の目も気にせずに、精神的ストレスから開放された状態は、我々の多くがともすれば渇望しているものに他ならないだろう。一人で居る時間の思索は、他者との協同とはまた異なる発想を生み出すこともある。己を見つめるときに、他者の干渉は有害である。


かつて東京で、駅やら建物やらの個室トイレが常に大繁盛であることに驚いた。

 

人口が多いので当然でもあるが、その中には、少なからず束の間の「一人」を満喫していた現代人の影が浮かぶ。聞けば、トイレで長居をする人も増えているという。もう少し、「一人」を満喫できる別の場所があっていいと思うのだが…。「一人」に希少価値が出るのは、なんだかおかしい気がする。あまりこれを放置していると、過激派としてのひきこもりが増加する憂いがあるのである…。

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シンプルな神

動物たちにとって、神とは何だろうか。


人は様々な宗教を造り(信者にとっては様々な宗教が人を創り)、様々な定義があろうが、仮に進化論的な立場から動物たちにとって神の存在を仮定すれば、それは自然選択の原理に他ならないだろう。(創造論的な立場からはまた違った見解があるだろう、それを語るほどに私は創造論に詳しくないため割愛する)


自然選択とは良く聞くが、昨今の主流である遺伝子レベルでの自然選択を是認するとき、普通の人には様々な疑問が生じるだろう。

 

利己的な遺伝子とはよく聞くが、果たして単なる化学物質の塊のようなものにその様な意思があるのかという初歩的なものから、遺伝子一つ一つでは生体として機能出来ないにも関わらず、遺伝子単体レベルにまで淘汰圧を還元していいのかと言う少しやっかいなものまである。

 

どうしても、淘汰される側に着目するから話がややこしくなるのである。

 

視点を、淘汰する側に移してみればどうだろうか。

 

だがこれが存外難しい。なにしろ、自然淘汰圧など目に見えるものではないからだ。それどころか、言葉で表現するのも実は難しい。

 

淘汰圧をあえて表現すれば、「なくなるものはなくなり、残るものは残る」ということになる。なんだか、余計にややこしくなってしまった。

 

利己的な遺伝子は遺伝子と言う本来意思のないものを擬人化したが故に多くの混乱を招いた。だが、本質的に、我々は性質や原理、摂理と言った、意思や目的意識のない

 

モノの把握には疎い。擬人化は、そういった状況の理解に大きな手助けとなるが、それは誤解を生み得る諸刃の剣でもある。


故に淘汰圧についても、あえて擬人化はしないでおこうと思うのだ。しかし、そうすると、なんともとりとめのない表現になってしまった。


言うまでもなく、自然選択、あるいは自然淘汰は、自然と言うものが意思を持って強きものを選び弱き物を切り捨てていっているのではない。

 

むしろ、強きものが残り、弱きものが消えうせる事実原理に、ある意味で自然という第三者を仮定し擬人化した上で説明しているのに過ぎない。即ち、この自然選択(淘汰)という言葉自体に、擬人化の性質をはらんでいると言える。

 

遺伝子レベルの自然選択に話を戻そう。

 

遺伝子にもちろん意思はないし、利己的な、という言葉はあくまで擬人化された表現のあやであることは、今更言うまでもないだろう。

 

では、遺伝子には意思などなく、ただ己の複製を増殖させる性質があると言うならば、どうだろう。

 

一見、目的意識を排し性質と規定したが故に、ある程度適切な表現にも見えるが、これでもまだ、実は不十分だと思う。

 

これだと、本質的に遺伝子という化学物質の塊は自己複製性があるように捉えられる。

 

正確には、自己を複製するシステムを(偶々)有した遺伝子だけがいわゆる生物の遺伝子として残ったと考えるのが適切であろう。あるいは、そういうものだけを我々が遺伝子と呼ぶともいえる。

 

遺伝子の元となったものには、自己複製性を持たなかったものもあったかもしれない。

 

しかし、それは当然、すぐに消えてなくなる運命にある。我々は、消えてなくなった数多の他のものを見ていない故に遺伝子には本来的に自己複製の性質があるように思ってしまいがちであるが、事実はおそらく、逆であり、我々が見ているサバイバーは少数派だっただろう。


なくなるものはなくなり、残るものは残るという、なんともそっけない原理が、創造神の想定まで駆り立てるほどに、「神がかった」複雑な機構を生み出した。

 

我々が見ている、あるいは見てきたあらゆる生物は驚くほどに生存競争に打ち勝つための様々な特徴を有しているが、その裏にはおそらく、その何倍もの生存競争に不適応な特徴の萌芽があったはずだ。ただ、なるなるものはなくなる、という極めてシンプルな原理の下、その萌芽は我々の目に付くほどに広まる前に消えうせただろう。


進化の現場は常に下手の数撃ちだ。

 

そこには決して生存競争に打ち勝とう、自己の複製を多く作ろうといった「照準」はなく、進化は四方八方に弾を撃ちまくるのみだ。

 

残らない弾は残らないが故に残らないのであり、残る弾だけが残っているが故にあたかもその残り弾のみに本質があるように勘違いをしてしまう。

 

我々は常に見えざる無数の弾に思いを馳せる必要がある。


なくなるものはなくなり、残るものは残るというこの味気ない、しかしこの上なく偉大な原理を全ての前に置き考えれば、淘汰の単位にそれほどこだわる必要があるのかという疑問すら沸いてくる。

 

即ち、遺伝子は一つ一つのレベルに於いて淘汰を受けるのか、いくつかが相関しながらなのか、あるいは今や廃れ気味ではあるが個体レベルなのか、更に大きく種というレベルなのか。


かの偉大な原理の前に立てば、そんなことはどうでもいいのである。とにかく、残るものは残り、なくなるものはなくなるのだ。

幸か不幸か、この地球上は有限の世界だ。

 

限りある資源と領域の上に、全てのものが立てるほどこの世界は広くない。

 

ただ、そこに立つ手段を、かの原理は選ぶことはないだろう。

 

遺伝子単体、あるいはいくらかの遺伝子群レベルでの淘汰を経るものがもっともよく残るならば(そして今のところそのようにも見えるが)、遺伝子淘汰が隆盛するだろうが、これは個体レベル、あるいは種レベルの淘汰の可能性を完全に排除することには決してならないだろう。なんらかのやり方で種や個体レベルでの淘汰を受けながら、よりよく残るものが現れたならば、かの偉大な原理は決してそれを拒むことはないだろう。


あくまで先にありきはかの偉大な原理であって、淘汰圧のレベルがどのレベルかと言う問題の方ではないのだ。

 

故に、少なくとも原理上は、淘汰圧のレベルはどのレベルにもその存在可能性が残されているといってよいだろう。


それにしても、自分自身、なんとも読みにくい、分かりにくい文章になったことである。

 

だから、私自身、他の稿においては、通常行われる程度の擬人化や、遺伝子淘汰説の前提化を行っているし、遥かにその方が書いている側、読んでいる側共にストレスフリーであると感じている。ただあくまで一度、此処に於いて原理原則に立ち返っておきたかったまでである。


それにしても、なくなるものはなくなり、残るものは残る。

 

この至極単純なフレーズが、ここまで複雑性を生むとは、なんと、シンプルな神だろう。

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経験が邪魔になる

以前とある棋士の談話で、「経験があるとかえって邪魔になる」という一節を聞いたことがある。通常、経験性善説が蔓延している一般人の考えでは、経験の蓄積こそが「勘」を生み、豊富な経験に裏打ちされたデータベースから独創的な発想さえも生まれ・・・という、経験礼賛の声が大きい。

 

しかし、逆の言説も実はよく聞かれることで、たとえば専門家集団などでは、特定の業界内にとどまり続けたが故に独自の世界観、観念を形成してしまい、気づけば一般社会とはかなり乖離したものになったりする。あるいは、まったく異なる業種からの新規参入者が、その業種に長年居座り続けている者達には想像もつかないような(無謀とも思える)斬新な発想で、成功したりする。


だがここで考えたいのは、それよりも更に少し急進的なものであり、即ち、物事の上達に経験が必ずしも寄与するとは限らないということである。


さすがに、何か、スポーツでも学問でも藝術でもいいのだが、あるものにおいて上級者になろうとする、あるいは達人と呼ばれる域に達しようとするならば、多くの人はそのものを練習し続け、経験を積んでいくことに実りがあるものと信じて疑わないだろう。


もちろん、天賦の才がある程度存在することは承知したうえで、それでも、練習、経験を積み重ね、その先に上達というものがあることを疑うものはいないだろう。


しかし、実は経験を積めばつむほど上達から離れていく可能性があるとすればどうだろうか。


よく、間違った癖を積むといくら練習、経験を積んでもそれが逆効果になることは言われる。本人は一生懸命練習しているはずが、実は悪癖の形成に汗を流しているだけで、傍から見れば哀れな人、というケース。こうなると、もはやずぶの素人のほうがプレーンで真っ白であるから、よい練習を積めばすぐにこういったpoor man を追い越せる可能性はある。


しかし更に論を進め、よい練習を積んでいくことすらも、上達から離れていくとすればどうだろう。いや、厳密に言えば、上達はするのだが、いつまでたってもトップにはなれないという状態。


理論はこうである。一般に、よい練習といわれているものは多くの人々の間に既に知られているものである。他人と同じように、同じだけ練習していても、結果として練習で差はつかない。すると、わずかな天賦の差が序列をつける結果になるだろう。練習者は、「これでもか」というほどに自分は一生懸命練習、経験を積んでいると自負するが、たいていの場合となりの練習者も同じことを考えている。結局、1日に人間に与えられている時間は等しく、なかなか練習の量で差をつけることは難しい。


更に言えば、似たような練習を延々と続けたからといって、単純な1次方程式の如く結果は正比例するとは限らない。どこかで飽和点を見る可能性も十分にある。


では、練習、経験を独自のものとして、質の差異化を進めればいいのだろうという話になってくる。これは、一方では当たっているし、一方では不十分な面もある。


確かに、練習、経験の質を独自にし、他人の真似できない経験を積めば、すばらしい上達が待っている「可能性」はある。ただし、これはいわば博打に近く、独自の経験は、悪癖への登竜門の可能性もある。


さらに、多くの方には受け入れがたいだろうが、そもそも、経験を積めば上達するという、その単純な方程式自体を疑う必要があるのではないかということである。


少し先述したが、経験と上達は無限に正比例しているとは限らない。一定のラインまで経験があれば、あとは飽和点に行き着く可能性もある。

 

そして、飽和点に行き着いているにもかかわらず、経験にこだわり続けることは、新しい視点を逃す結果に繋がることもあるということだ。

 

上達には、経験、練習の積み重ねの上に、更に「ひらめき」という起爆剤が必要ではないかということである。


「ひらめき」の発生には、経験が寄与することはもちろんあるが、同時に、経験が邪魔をすることも多い。それは、冒頭第二段落で延べたとおりである。

 

必要以上の経験は、経験への固執、過信を生み、トップへ上り詰めるための必要条件である「ひらめき」の発生を妨害することがあるのではないだろうか。


これはなにも、むやみに慣習やよき練習法を否定するものではない。


こういう論をすると必ず誤解して、「常に新しい視点が必要、固定概念をすてろ」などと騒ぐ人がいるが、長い時間を経て自然淘汰された慣習や固定概念は、大方のケースに於いてかなり役に立つ、優等生の知識の集積であるから、これを馬鹿にすることはあってはいけない。


ただ、これら古きよきものは、必要最低限の経験取得時にベースとなり活躍してくれるものであるが、そこから更に極みを狙うときには、これだけに頼っていてはいけないということである。


即ち、70点や80点をとるだけならば、一般的な手法である、古きよき慣習、練習法に従い、十分な経験、練習を積めばよいものと考える。しかし、95や100を狙うとき、それだけでは不十分である。

 

そこで、「ひらめき」がその壁を破るためにどうしても必要なのである。


まとめると、経験、練習の蓄積は、もちろん基礎を固め70,80点をまずとるのに必要である。しかし、一定程度まで蓄積されたら、それからはそれに固執するのではなく、むしろそこから離れながら、極みへの壁を越えるための起爆剤となる「ひらめき」発生への準備を進めるべきだということである。


そして、その蓄積の一定程度のラインは、実は我々が考えているより、もっと低いところにある場合もあるのではないか、と個人的には思っている。

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意識が作り出す

比較的旧来からある議論として、モノはモノとして最初からありきなのか、それとも我々の主観がモノをモノとして作り上げているのかという話がある。哲学では重要なテーマにもなっているらしい。


水槽の中の脳という仮想があるように、原理上は、我々が知覚する全てのモノは脳に適切な電気信号さえ送ることが出来れば、実体なくそれを知覚させることは出来る。もしかしたら、この世など存在せず、全ては水槽に浮かべられた我々の脳の幻想である可能性も無きにしも非ず、ということである。


少し話が飛んで大袈裟になったが、もっとミクロな部分でも、我々の意識は確かに、本当ならばないかもしれないモノを作り上げているケースがある。


肩こりというものがある。これは日本独特のものらしい。そう言うと、まるで日本人のみに肩こりという症状が存在するのか、やはり日本人はなで肩で肩が弱いのか、などと勘ぐる人も居るだろうが、むしろ事実はそれとは異なる。


勿論、異国の人々も首や肩の緊張感を感じたり、違和感を覚えたりすることはある。しかし、それを一つの症状として、特定するネーミングを持たないのである。表現する言葉がないと、人は不思議なもので、それはそのモノをさして知覚しないようになる。あるいは、さして知覚しないからネーミングがなされないということもいえるのであるが、とにかく、言葉によるネーミングと、それに伴う意識が、そのモノの存在感を高める、いや、もっと言えば、そのモノの存在に係る必要条件を握っている側面があるのである。


肩こりに話を戻すと、文化的に、異国ではその、肩や首の緊張感や違和感を覚えることがあっても、それに相当するネームがない故に、大した事として捉えられていないか、あるいは、大した事と捉えられていないから、ネーミングがなされないでいるということである。実際には両方の相乗効果があるのだと思う。


似たような例として、フランスの重い足というものがある。足が重くだるいという症状は確かに我々も経験することはあるが、日常会話で頻繁に口にするほどそれを意識もしないし、肩こりのように端的にそれを表す言葉もない。そして、それを治療する市販薬も、決してメジャーではない。


しかしフランスでは、この重だるい足の症状を重い足と呼び、さながら日本の肩こりのように国民が認知しているという。だから、彼らは重い足により敏感になり、重い足についての話題も多く、それを治療する薬もあるという。


更に話を進めよう。いわゆる西欧医学が発達していないような国では、それが発達しているような国では精神病と認定されるような患者も、その国の人々はまずもってそのような概念がないが故に、彼或いは彼女を決して特別扱いすることはないという。それが偏見に繋がる場合ももちろんあろうが、一方で、彼或いは彼女になんらの先入観なく施しをする等し、結果的に彼或いは彼女がその国に於いてはよく適応できるケースがあるという。身体的な損傷等が見られない精神病は特にそうであるが、一部の身体的疾患であっても、それを疾患と見なさない文化の国に於いては、その患者はもはや患者ではなく、その疾患はもはや疾患ではないのである。


よく、言葉なしに我々は思考することすら不可能であるという言説を聞く。ある現状があり、あるモノがある前で、それらに名前をつけ、言語化することで初めてそれが意識され、思考の対象となる。原始的な苦楽の感情はともかく、ある程度複雑な思考は、確かに言語化による意識が必要不可欠ではないかと思う。我々は、名づけることによって始めて、そのモノを意識化し、我々の知覚上に、そのモノが「存在」し始めるのである。


言葉によるネーミングは、あるモノへの意識を喚起させる非常に大きなツールであるし、逆にモノへの意識が強まったときに、言葉によるネーミングが要請されるとも言えるのであるが、肝要なのは、必ずしもネーミングそのものではなく、意識の強化ということがそのモノを作り上げるということである。言葉は多くの場合関与するが、しない場合ももちろんある。


病は気からと言う言葉があるが、これは、患った病への意識の強化が、よりその病の存在感を助長し、悪化(少なくとも主観的には)をもたらしうると言うことであり、その逆も然りということである。逆に、仮にではあるが、悪性の疾患の患者に対し、良性であるとの虚偽の説明をし、患者が十分に納得した場合、少なくとも主観的な症状は軽快に向かう可能性が少なからずある。無論、これは器質的よりも機能的疾患において当てはめられるべきものであるが。プラセボ効果なども類似の原理によるものである。


医学的な例が続いたが、このような意識化がモノを作り出すということは、あらゆる場面で見られる。たとえば西洋では文化的概念として悪魔が存在し、その風貌から人の美的感覚についても、立ち耳や八重歯は非常に嫌われるという。

 

しかし日本ではこれらを気にする人は少ないであろうし、まず、たとえば立ち耳に関して言えば、耳の形などよほどでない限り気にしたこともないという人も多いであろう。即ち、意識されないが故に、美的ファクターから耳というものはその存在を殆ど消しているのだ。


マイナスイオンなどというモノも、そうである。

 

確かに昔から、我々は森林や滝つぼの近くで感じる、独特な匂い、雰囲気、質感を知覚してはいたし、それに対し好感を覚えていただろう。しかし、その漠然としたモノに、マイナスイオンなどという、なんともよく分からないが比較的覚えやすい単語の組み合わせからなるワードが充てられたことで、あの、独特の空気への意識化は格段に向上した。

 

実際マイナスイオンとは何のマイナスイオンなのか、OHなのか、はたまたClなのかは知らないし、誰もそのことを気にとめてもいないように思える。そして事実、そんなことはどうでもいいのである。マイナスイオンという言葉により、あの今までなんとも表現できずにいたあの何かを、より容易に表現できるようになったことで、我々のあの何かへの意識、知覚は強化され、あの何かは格段に存在感を増したのである。


そして、あの何かはこの名前による意識化を武器に、今まで対してその存在感を発揮してこなかったような、公園の噴水や、小さな小川、あるいは、スチーム機においてですら、その存在を主張し始めている。明らかに、あの何かは、モノとしての力を強めていったのである。


逆を言えば、あるモノから名前を取り、意識しなければ、そのモノは消えていくということになろう。しかし、現実にはこのプロセスは不可逆性が強く、一度成立したモノが、再びなりを潜めることは、難しいようである。

 

もちろん、かつて存在していた言葉、それに伴うモノが、時代の変化と共に消えうせていくことは、無いことはない。しかし、多くの場合それは、モノそのものがなくなったが故に追従しての言葉の消滅であり、決して言葉の消滅がモノの消滅を誘導した例は多くないと思う。


モノを創ることは比較的容易なようだが、無くすことは難しいようで、これはいつか聞いた、「あったことをなかったことにすることは、かの(創造)神ですら出来ない」という、赦しの困難性の言説を思い出させるのである…。

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限られた、匂い

視覚情報化社会といわれて久しい。同時に、音響機器も発展を遂げ、携帯音楽機器や携帯電話等の発展を見れば、聴覚情報化も相当に進んでいるといって差し支えなかろう。

 

では、残りは、どうだろうか。


人の五感のうち、多くの人が其の喪失を恐れるのは視覚、聴覚であろう。残された存在として味覚、触覚、そして嗅覚が挙げられる。

 

味覚はいささか特殊な感覚である。本来的には食物の化学的な性質検査の役割を担っていたであろう此の感覚は、根本的に其の発動時期が限られている。即ち、摂食時のみである。


触覚、これもまたある意味で特殊なものである。その他4つの感覚器は非常に限られた範囲に存在しているが、触覚に関しては殆ど全身が感覚器である。あまりにも根本的であるが故に、さしたる着目を受けにくい側面もあろう。情報を得る感覚としてみれば、この触覚は至極至近距離のもののみにしか適用されないという意味で、限定的な側面もある。そういう意味では、味覚も同じであり、この両者は、情報探知機としては近距離型と言える。


そして、嗅覚である。この感覚は非常に面白いものである。

 

視覚や聴覚と同様に、嗅覚は遠方の情報も伝達できる。発動時期も止むことなくエンドレスである。生存上は化学物質の探知を主目的としており、そういう意味では味覚と相互補助関係にある。(事実、嗅覚の損傷は味覚の損傷に繋がる。)なかなか、重要な役割を担っているのである。


しかし現代人は、嗅覚に頼って何かするということは殆どない。

 

異臭の探知も、現代社会に於いては高度な警報機が代行してくれるだろうし、排気ガスくさい此の社会ではむしろ迷惑な存在とすら感じる人もいるかもしれない。

 

一部にアロマセラピーなど嗅覚重視の動きもあるが、決してメジャーであるとは言いがたい。


ところが、この非常に役割が縮小化されて限られていった嗅覚が、思いがけずに力を発揮することがある。それは、ふとした馴染みの地に触れた際の、いわば郷愁のスイッチの役割を果たすのである。


長らく離れていた場所を訪れた際、しばしば目にする景色は様変わりし、町に流れる喧騒のリズムも変貌している。しかし、なんとも表現が難しい(匂いほど表現の難しい感覚を私は知らない)匂いは、確かにその土地に染み付いていて、それはしばしば懐かしのそれとなんら変わっていないのである。


あの、土地特有の匂いは何なのだろう。その地の植物の匂い、川面の匂い、あるいは工場の匂い、地に住む人の生活の匂い、様々な要素が混ざり合って独特の匂いを形成しているのだろう。それは普段、離れているときには思い出そうとしても思い出せない(匂いとは想起が非常に難しいと思う)、しかし一度嗅げばすぐさま「ああ、此の匂い」と合点する匂い。この力は、いささか強力すぎて、時に視覚や聴覚などの情報手段など忘れ去られるほどにあらゆるその地での想い出を引っ張り出してくれる。


これは、人にも当てはめることが出来よう。論を待たずして、人にはそれぞれ固有の匂いがある。体臭というとあまりに品がないし、マイナスイメージが先行するのでここでは敢えて使わない。ここでいう人に匂いとは、決して不快なものではなく、その人を想起させる、よきトリガーとしてのものである。


久しぶりに会う友に、昔と変わらぬ匂いを以ってしてその懐かしみを大きくした人も多かろう。ここでも、人は経年によりあらゆる変化を遂げるが、匂いだけは、かつてのそれであることが多いような気がする。もっとも、その人に伴侶が出来た暁などは、いささか匂いも新調されるのかもしれないが。


動物の世界でもマーキングなどは匂いを通して行われる。各人に固有の匂いがあり、そのそれぞれに懐かしみを覚えるのは、ある意味自然なものなのかもしれない。いくら仮装して、変声を遂げたところで、匂いを隠すのは案外難しい。匂いは、その信頼性からも、あらゆる過去の同定に使われるのかもしれない。


匂いは確かに得られる情報量は限られているし、その射程範囲も限定的である。しかし、限られているが故に、よりいっそうの力を発揮する場面があるようだ。視覚や聴覚は、我々が普段よく使用し、いわば使い慣れた道具である。そんな中で、珍しく嗅覚が懐かしの匂いを伝達したとき、人は、より大きく心を揺さぶられるのかもしれない。


限られたが故の、希少性の持つチカラであろうか。

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現代と古

よく聞かれる話として、現代の人間は熾烈な生存競争からは縁遠くなったというものがある。経済的格差などは以前存在しつつも、我々は猛獣に襲われる危険を感じることはともすれば一生ないこともあろうし、感染症に罹ったところで容易に逝くことはなくなった。

 

平均寿命は飛躍的に延び、それに伴いさまざまな社会問題は発生しているものの、こと、サバイバルとしての命の保持だけに着眼した場合、原始時代から文明社会への遷移はまさに地獄から天国とも言うべきものであったことだろう。

 

同時によく聞かれる話として、現代は精神的弱肉強食時代であるというものがある。

 

確かに肉体的には、現代は原始時代に比して格段に「楽な」世界となった。

 

しかし、精神的には、複雑に入り組んだ人間関係、原始時代とは比べ物にならないほどの数の相手との交際、折衝などにより、精神的ストレスは格段に増大したという論説である。

 

かつてジャン・ジャック・ルソーは、自らの著書の中に、原始生活を送っているものの中で自殺をしたものを知らない、それに比べて現代は・・・という嘆きを、既に記している。

 

農耕の発展による人口増大とともに始まる文明の台頭は、人間の社会化という人類史上未踏の領域へと我々が足を踏み入れるきっかけとなった。

それは、かつて小集団による独立的な生活を営んでいたと見られる我々の先祖からしてみれば、ある意味無謀な挑戦であったのかもしれない。

 

肉体的には天国であるという論と、精神的には地獄であるという論は、それぞれ説得性を有しているように見えるが、果たして本当にそうなのだろうか。

 

 

 

そもそも、かつての我々、あるいは、他の野生生物と、現代人では、生存競争ひとつとってみても、その捉え方が大きく異なるであろう事に留意したい。


先に私は、現代人の捉え方として、現代を肉体的には楽だが、精神的には苦痛であるというものを取り上げた。これを少し掘り下げて詳述すれば、現代は、自身の延命には適し、日々受ける精神的苦痛の観点で言えば地獄であるということだ。

 

比して、かつての原始時代では、自身の延命には不利であり、日々の精神的苦痛はより緩和なものであったということである。

そして、自身の延命を、肉体的な生存競争における勝利、成功と近似に捉えている。

 

一方で、かつての我々や野生生物は、自らの置かれた環境をこのように肉体・精神の2局面から2分していたかどうかは怪しい。彼らの最終目標は、(進化)生物学的な論点に立ちながらお決まりの擬人化を用いれば、自己遺伝子の複製をできるだけ多く、できるだけ長く存在させることに他ならないことは、明白であろう。

 

であるとすれば、ある人がたとえ100歳まで生きたところで、一人も子供を作らなければ、この観点で言えばこの人の人生は失敗であったということになる。


我々の先祖が、他の野生生物と同様、悪戦苦闘していた肉体的な生存競争も、その最終目標は自身が単に長生きすることではなかったはずだ。もちろん、長生きすれば子作りの機会が増えるという意味で、間接的に長生きは最終目標に貢献するが、あくまでその最終目標とは、自身の子供を一人でも多く作ることであったはずだ。


我々が肉体的な生存競争と聞くと、自身の身の危険を守ることを第一義的に考えがちだが、(進化)生物学的に言えば、単に自身の身を守るだけでは生存競争に打ち勝ったとはいえない。自身の健康な体を以ってして、多くの子供を作ってこそ、はじめて目標を達したといえるのである。


彼らのシンプルな最終目標を鑑みれば、そこに肉体と精神の区分など存在しないことになる。もちろん、肉体的に不健康な状態で多くの子孫は望めないだろう。一方で、極端なストレス状態に於いても同様のことが予想される。

 

故に、彼らの「生存競争」には、肉体も精神も全て包含された上での、子孫繁栄という最終目標があるだけの、極めてシンプルなものであるといえる。


それが、現代では、できるだけ多くの子供を・・・という、本来生得的であるはずの観念が抜けがちな人間が多いため、肉体的な生存競争と聞くと、ついつい単純に自身の身を守ることだけに目がいきがちである。20代で5人の子を産み夭折した人と、100まで生きながら子供に恵まれなかった人、2人を比してどちらが「肉体的に」「成功」したかと問われれば、原始人は前者、現代人は後者を選ぶといった分岐が生まれる可能性は十分にある。


なぜ生物のcommon senseといえる最終目標が抜け落ちがちなのかはまた別の話として、異端となった現代の我々は、もはやかつての我々と、あるいは他の野生生物とパラダイムそのものが根本的に異なってしまっているといえる。


もちろん多くの場合一定の子孫は残すがその最大化を必ずしも欲しない現代人にとって、その関心事は自身の健康な延命と日々の精神的安定という2大柱となった。

 

比して子孫の最大化を唯一の最終目標としっかり植えつけられたかつての我々及び野生生物は、自身の延命そのものや日々の苦痛を、あくまでその最終目標への間接的なファクターとしてしか捉えないだろう。


かつてと目標が異なる中で、かつてと現代の比較はもはや正確性に疑問符が付くものとなる。ある現代人が肉体的には苦痛が多く精神的には楽が多いと見なす古の時代にタイムスリップしたとして、其の思考回路が現代人のままなのかそれすらも古のものに回帰するのかによって、全く感じ方は変わってくるだろう。逆に古の先祖が現代にやってきたとしても、同じことが言える。


現代人からしてみれば地獄のような、平均寿命は短く老成期には多大なストレスを受ける環境でも、それが繁殖期まで安全で多くの子孫を作ることができる環境であれば、古の先祖たちには天国のように映ったかもしれない。逆に現代人は現代を肉体的には「楽な」時代だとみなしがちであるが、自身の延命そのものが最終目標ではない古の先祖たちはそこに価値を見出すことは難しいかもしれない。


精神的ストレスというのも、大きくパラダイムが異なる以上、その定義そのものが古と現代では大きく乖離している可能性が高い。となると、もはや純粋な比較などできず、結局冒頭のような我々がしがちな推測は妄想でしかないということになる。


現代がどういう時代なのか、その定義は現代の我々のみがすればいいし、結局、我々にしかできない。古の時代もまた、同じである。

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異形の美

美とは、何だろうか。

 

ある人曰く、美とは性選択における基準であるという。

 

なるほど、いわゆる美人というのは、其の顔、体つきについて相当程度左右対称、各パーツは適度な大きさで均整が取れており、いわゆる疾患などにより「崩れた」顔立ち、体つきとは対極をなす。まさに優良な遺伝子の体現といえる。

 

しかし、いわゆる芸術における美では、この性選択基準はあまり通用しない。

 

性選択基準は、いわばモノの平均付近をとったものが美ということになる。

 

身長一つにしても、あまりに高い身長や低い身長は好まれない。

顔立ちにしても、大きすぎる、あるいは小さすぎるパーツは敬遠される傾向にある。

 

もちろん、文化、時代により色々なバリエーションはあるが、一般的には、この性選択基準で言えば、極端なものは危険の象徴、即ち、疾患などの危険性ありという目印になろう。故に、平均付近に美が現れる。

 

しかしながら、芸術における美はもっと多様で、極端な大小、左右非対称、普通では有り得ない色や形など、むしろ平均からずれる方向に美を認めるケースが多々ある。

 

極端なものへの指向は、少し進化生物学に詳しい人ならばランナウェイ説を引き合いに出して性選択の範疇に収めようとするだろう。即ち、象徴化された何らかの特長に於いては、其の特徴が顕著であるほど良しと見なす性選択の方法で、たとえば、孔雀の羽などがよく引き合いに出される。

 

しかし、一般にそのような性選択の方法をとる場合、基準は単一であることが殆どだ。

 

たとえば、孔雀の雌は雄の羽の大きさ、立派さには敏感に反応するが、ヘラジカの雄の角の大きさには見向きもしないだろう。コブダイのコブにも、ムンクイトマキエイの着水音にも、鈴虫の音色にもなんら関心はないだろう。彼女たちにとって、美とは雄の羽の大きさ、立派さのみにあり、それ以外のものに美意識が発動されることは、近似なものへの誤作動こそあれど、そう多くは無いだろう。

 

一方で、人間の感じる美は、対象からその基準までさまざまである。

 

これだけ幅広いと、もはや性選択の基準としてはあまり役に立たないものだろう。

 

なにしろ、基準というのは、単一化されていればいるほど見分けが付きやすいし、数多の煩雑な基準は混乱を招くだけであるからだ。そもそも、我々は身体的特徴に対しては、平均付近を美と感じる戦略を有しているのであれば、芸術分野における極端なものへの指向はこの性選択的基準に明らかに反する。それでも、我々が孔雀のように極端なものを指向するのに特化した特長を身体的に有しているならば話は分かるが、そのようなものを私は知らないし、万が一そのようなものがあったとして、平均付近を美と感じる感覚には相反する。

 

中には、現代の学問(知)、文学、音楽、スポーツなどあらゆる文化活動を、性選択の結果生じたものだとする論もあるようだが、いくら知能が高いヒトと言う種であれ、そこまで多様な性選択の基準を有する必要があるだろうか。

 

あらゆる文化活動を性選択の基準にしてしまえば、どんなオスも、いや、男もなんらかの分野で抜きん出て、メス、いや、女に選ばれてしまう。これでは、選択基準として機能しない。

 

あるいは、女のほうも、数多ある基準を全て覚え、基準同士の関係をどう捉えるかで苦労するだろう。それよりも、たとえば、足の速い男ほど強さの象徴でありよしとする、といった、孔雀の羽に相当する単一基準を構築したほうがはるかに早い。

 

そしてそもそも、我々は身体・顔つきに関して言えば、平均付近を取る基準を有している。性選択には、この単一基準で十分ではないだろうか。

 

それでもあらゆる文化活動を性選択と結び付けたい人たちには、高度に社会・文化が発展した環境に於いて、身体的特徴だけの単一基準では判断が不十分になり、さまざまな基準が出没したと考えるかもしれない。

 

そして、基準が多くなりすぎ、更に性選択の本来の目的である相手を選ぶということのみならずモノや風景、事象にすらその基準たちが適用されている現状は、単なる誤作動、

副作用の類であると捉えられるかもしれない。


しかし、それにしても人間の美はあまりにも多種多様である。

 

閑話休題、ここからは、ひとまず人間の美の多様性の一部を見ていくことにしよう。

 

一、平均の美

 

これは性選択とも結び付けられやすい、平均付近の顔立ちを美とする意識に代表される。

 他にも、一定の基準に沿っているという意味での平均として、楷書の文字に対する美意識などがあげられよう。


二、大きさ、あるいは小ささの美

 

たとえば巨大建造物、あるいはミニチュアハウスのように、そのものの極端な大きさに感嘆し、転じて美を感じるケースがある。

 それらが普通のスケールであればさして印象に残らないものでも、スケールが極端であるとそれだけで美を発動させることがある。

 

三、珍しい色の美

 

見たことも無いような色使いの商品や、突然変異で生まれた色違いの生物に美を感じることがある。たとえば、ホワイトタイガー。同じ白黒でもそれがシマウマに於いてはなんら特別な美を生み出さない。

 

四、特定の音波の美

 

音楽、虫の音、川のせせらぎ・・・さまざまな音波に我々は美を感じるが、その法則性を見出すのは極めて難しい。もっとも、可聴周波数において極端に端の周波数は嫌われたり、ある種の倍音が好まれたりなどといったレベルの法則はある。これには雷鳴や獣の威嚇音など、進化戦略的に不快と感じる機構が備わっていると考えられるケースもある。

一方で、川の音や野鳥のさえずりなど、本来人間の生活にプラスにもマイナスにもならない音に魅力を感じる理由は、この進化戦略説では容易には説明が付かない。

 

五、懐古の美

 

たとえば昭和の風景など、当時の人にとってはなんでもなかったものが後世にはノスタルジーを含んだ美として評価されることがある。ともすれば川の音や野鳥のさえずり、あるいは自然の風景に美を感じるのも同じ機構によるともいえる。

 

六、異なりの美

 

異国情緒という言葉があるが、我々は懐古と同時に、見たこともないような風景にも美を覚える。もっとも、其処に住んでいる人にとっては取るに足らない風景であってもだ。

 

七、定型の美

 

音楽における各種法則、韻、俳句、短歌の型など、ある種の定型に美を見出すことがある。或いは、庭園における石の配置などに於いても、一定のルールがあり、美の典型とされる。


八、人工の美

 

自然界には稀有な対称性、整然性に美を感じるのは、西欧文化で顕著であるが、それに限らず比較的普遍性を持っているだろう。たとえば、整理された部屋の美など。

 

九、混沌の美

 

上記人工の美とは逆に、複雑怪奇な混沌、カオスな状態、或いは自然のままの状態に美を感じることもある。これは懐古の美とも絡み合っているのかもしれない。

 

十、異なる視点の美

 

同じものを見ていても、ある別の角度から見る、とりわけ、普通ではないような見方をするとそこに美を感じることがある。マクロ写真、などを参考にされたい。


本当はもっと色々あるのだろうが、ここまでにおいても、賢明な諸兄の中には既にお気づきかもしれない。これらの美には全て共通する性質がある。それは即ち、希少性である。

 

以下、希少性と一見相反する上記項目について取り上げてみたい。

 

まず、一、即ち平均の美、平均と書くとありふれたというイメージを持ちがちであるが、ご存知のようにこれは主に人間の身体、顔に対して発動される美である。

人間の身体、顔において、あらゆるパーツが平均的である人というのは、これもご存知のように稀有である。故に、美人とは稀有な平均顔の持ち主であり、平均の美はやはり希少性に基づいている。


二、三は取り立てての解説は不要だろう。文字通り希少性がベースとなっている。


四については、五に組み込まれる自然の音がいくらかあるが、その中でも、季節性のある虫の音などは希少性を見出すことが出来る。更に、いわゆる音楽のメロディは、自然界には存在しにくい複雑なもので、希少性を有しているといえる。


五については、かつてはありふれていたものの現在はないがゆえの「懐古」であるため、もちろん希少性を見出せる。


六、八、十は他とは異なるという点でやはり希少性を基にしている。


七、定型の美であるが、これについては希少性の定型化と考えるとよいだろう。

 

即ち、たとえば韻を踏むということについていえば、種種雑多な叙述に於いて韻が踏まれることは元来希少性の象徴的存在であったことだろう。そこに大きな美を感じた者達が、この希少なる韻というものを定型化していったと考えられる。もっとも、全てが全て韻を踏めてしまえば、おそらく韻に現在ほどの権威はなくなっていたことだろう。しかし幸いなことに、叙述の言葉の数、及びその組み合わせは制限があるため、無尽蔵に韻を踏むことはいつの時代も極めて困難であり、そのことがかえって韻の希少性を保ち続けてきたといえる。それは、俳句や短歌の型にも言えることだ。

 

九については、先にも書いたが懐古の美に一定含まれるものだろう。あるいは、人工化された現代に於いて逆に非対称性、混沌性が希少性を持っているという見方ももちろん出来る。


おそらく、ありふれたものに美を感じることは少なく、いわゆる美しいものには希少性が伴うことに異論を唱える方は少ないだろう。だが、もちろん、希少性は美にとって必要条件ではあっても、十分条件ではない。このことが、美と希少性の関係を見えにくくしている一つの要因ではないだろうか。美とは、希少性、他とは、異なるということ…。

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美を競う

美を競うことは、果たしてできるのだろうか。

 

絵画や写真で、どれが優秀賞だの、どれが凡作だの、ランク付けされることがある。

私が信じるところによれば、芸術とは主観であり、競技的側面の本来的に欠けるものだということは多くの方の賛同を頂けると確信する。

しかしながら、マジョリティの主観さえつかめば、案外、芸術にも「攻略法」があり、無理やりながらではあるが競技を創造することも可能であるのではないかと考えている。

 

たとえば人間の顔にも黄金比や一定の法則により、いわゆる美人顔を想定することは容易い。

そこには、生物学的、あるいは進化心理学的な美の指向性が多くの人間には備わっているからで、ここを攻略すればある程度の美を規定することができる。

 

ただ、ここで一つの壁にぶち当たるのは、こういった生物学、あるいは、心理学的な側面からの美への攻略は、「美」と「駄作」を分別することはできても、「美」の中でのランク付けをすることまではなかなかできないということである。

 

人間の顔で話を進めると、いわゆる美人にも数パターンあって、東洋的な美人、インド・ヨーロッパ系の美人、黒人系の美人など、大まかに分けても人種的にカテゴライズできるし、同じ日本人でも、「カワイイ」系や「カッコイイ」ハンサムウーマンなど、これまたいくつものパターンがあるのである。

 

例えば俗な言い方をすれば綾瀬はるかも長澤まさみも美人の類だと認める人は相当数いるだろう、しかし、両者とも自分の好みだと言う人はかなり減るのではないか。即ち、「美」ではあるが、「好みの」美ではないという「美」が、存在することが「美」のランク付けを困難にしている。

 

話を芸術に戻そう。

絵画や写真も同じことで、「確かに綺麗な絵ではあるが・・・」という、「好みではない美人」の類が必ず存在する。これの排除ができれば、芸術のランク付けは格段にやりやすくなる。しかし、これは相当困難を極める。美という上位層の中でのランク付け、トップの決定論は想像以上に難解だ。

 

攻略の方法は2つに絞られる。

ひとつは、極めて最大公約数的なモノを目指し、できるだけ多くの人に受け入れられる「国民的女優」的な方向性をとること。

芸術、美の分野において、もし勝敗を決める基準があるとすればそれは支持者の数であろうから、この方向性は正攻法である。

 

一方で、こういった最大公約数的なモノは突出した特徴にかけるため、熱狂的支持者を作りにくいという難点がある。

さらに言えば、とみに芸術の分野では、「他者と違う」ことが一種のステータス的効果を生むことがあり、あまりに人気が普及するとコアな支持者が逃げていくとう現象がみられる。

 

これについては、いろいろな考え方ができると思うが、美への指向性を、自然淘汰的ではなく、性選択的と考えると少し理解の道が開けるのではないかと考える。

 

即ち、美への指向とは、やはり性選択がベースとなっており、性選択は、平均点以下を切り捨てる自然淘汰とは異なり、トップ層から摘み取っていくシステムが基本であるからだ。(これについては正統的な進化生物学に通じる人からは批判を受けるかもしれない。)

 

美を選ぶとき、あくまでトップを探そうとするが故、万人に知れ渡り平凡化した「国民的女優」は、トップに相当する魅力を減じるのかもしれない。

 

もちろん、逆の発想で、万人の好みに合い、万人との競争に勝たなければ手に入れられない「国民的女優」を追及することは非効率的であり、防衛反応として魅力を感じにくくなるという考え方もできる。

 

何はともあれ、「国民的女優」作戦は、ともすれば上位層ながらもその中の平均点どまりの結果を作りかねないというポイントがあるということだ。

 

一方、万人への訴求はあきらめ、一定の特徴を保つことにより一定のグループへの熱烈な訴求を目指す方向性もあろう。

一部のインディーズバンドが熱烈なファンを持つように、万人受けこそしないが、必要十分な数の支持者、しかも熱烈なそれを得ることを目指すならば、平凡化しないような特徴を持ち続けることだ。

 

ただし、あまり特殊な特徴に走り過ぎると、今度は必要充分な支持者の数を集められなくなる。また、そもそも「美」の基準から外れて「駄作」に転落する可能性もある。

 

この作戦で行く場合、最低限の「美」の基準は守りつつ、「遊び」を入れることで平均化された「美」とは一線を画することだ。

 

しかし、これら最大公約数セオリーもコアファン確立セオリーも、根本的な問題を解決しているわけではない。即ち、これら攻略法で上位群に入ることはできても、ナンバーワンになることを保証することはいずれの手法でも不可能である。

 

ところで、美を競うとき、その勝利とは、できるだけ多くの人ができるだけ熱心なファンになる、ということだろう。

 

そして、前回にも書いたが、美とされるにはある程度万人に共通な美感覚に通じている必要がある。独りよがりの美的感覚は、ただの駄作にしか帰結しないのである。

 

つまり、最大公約数セオリーでもおなじみだが、美を競うとき、できるだけ万人に共通の美感覚に訴える作品をつくる必要があるのだ。

 

しかし、ここでひとつのパラドックスが生じる。

 

万人に理解され、万人にとって美しいとされる美を作る時、その美を万人が作り出す可能性があるということだ。

 

分かりにくいだろうか?

 

絵画を例にとろう。

 

夕焼けの絵は誰もが美しいと感じるだろう。いわば、万人に理解される美である。そして、万人がそれを知っている。

 

だから、万人に、「絵描きとして、きれいな風景画を描いてください」と言えば、結構な確率で夕焼けの絵を描くことだろう。

 

他にも、花畑、清流、海、などなど、万人が認める美的風景は大体決まっている。そして、万人が認めないと美ではないが故、美を作る時、どうしても万人が認めるこれら美的風景が選ばれる。

 

もしも万人が同等の絵の技術を持っていたら、それでは万人が良い絵描きとなってしまう。

 

そんなことはない、技術が同等はありえない、だから万人が良い絵描きにはなれない、と言われそうだが、正直な話、技術という点で上手い者は実際腐るほどいる。写実なら、アマでもすごいのは山ほどいるし、音楽の世界でも、歌唱力だけでいえばプロ以上の者はライブハウスでも行けば腐るほどいる。(プロなのにひどい者が多いのも事実だが)

 

それでもプロとアマの差があるのは、何なのか?

 

それは・・・

 

「夕焼け、花畑、清流、海・・・しかし、良く見れば都会のビル群も見方によっては綺麗じゃないか!これを描こう!」

 

こういう発想力でしかないのではないか?

 

例として着眼の発想を挙げたが、これは構図や色や視点などでも勿論構わない。

 

しかし、これは実に危うい、綱渡り的な差である。

なぜなら、ビル群だって見ようによっては綺麗であるということは万人もまた気づきにくいだけで知っているのであり(逆に知って、言いかえれば認知されていなければ、そもそもビル群の絵が駄作とみなされるだろう)、いつ気づいてもおかしくないからだ。

 

しかし芸術家は、この綱渡りをせざるを得ない。

 

「そうだ、この泥土も綺麗じゃないか!」といくら叫んだところで、万人が認めない以上それはただの戯言だからだ。

 

芸術家が芸術家であるためには、技術がうまいのはもちろんのこと、常に万人に知られているのだけれど、しかし気づきにくい「美」を、いつも探し続けなければならないのである。その「美」は、万人が知るが故にいつ他人が発掘してもおかしくない。でもその前になんとしてでも自分が発掘する、芸術家は、実は永遠のレーサーなのだ。


そしてその危うい競争の上に、微妙な偶然と必然が重なり、トップが決まっている。

 

トップを決めるセオリーは、おそらくないだろうし、少なくとも、私は知らない。

ただ一つ言えることは、トップになれば、芸術家は美の「創造者」にもなれるということだ。自身の豊かな賞歴と背景を源泉に、誰もが、いや、実は自身でも「どうかな?」と思っている対象を絶賛し、これに注力することで、これが「美」なのだという規範を作り上げる…どこの世界でも、レースに参加しているうちはひよっ子、レースを運営する側になって初めて「トップ」なのである。

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ちっぽけな存在論

(注)さて、このブログですが正直なところ製品開発とかだけを書いておりますと更新頻度が低すぎますので、穴埋め(?)のためにコラムというカテゴリーを用意しました。

今後不定期で或る人のコラムを載せていきます。釣りとは全く関係の無い話も多いですが、穴埋めですので気にしないでください。

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2015秋・サケ釣りシーズン

 いよいよサケ釣りシーズンがやってまいりました。

鮭竿は各メーカーが出していますが今年は新製品も出た様ですね。

全体的にサケ釣り黎明期よりも使うラインが太く、よりヘビーなロッドへという流れが全体的であるように思えます。

昔の本流竿等は渓流竿との共通点もありましたが昨今のそれはかなり異質なものになってきています。


さて、POLE&LINEとしても、よりヘビーな竿、も検討していますが、実際、日本の一般的なサケ釣りであればRUDOW8500で十分な訳でして、この竿で獲りきれないというのは、やはりメータークラス以上を考える必要があるのかと思っています。

ただはたしてメータークラスを狙う釣りが日本で出来るのか。。。特にサケで。荒川の特大サケくらいしか思いつきませんが…。

まだテスト初期段階ではありますが、一応RUDOW8500を超えるパワーのサケ竿のプロトは手元にあります。適合ラインは参考6号、実質には8号位張る人もいるかもしれませんが。

RUDOW8500も適合ラインは控えめに書いていますが、これはどうしても控え目に書いておいてもそれを超えるラインで使う方もいる為です…、私も含め…(苦笑)。

延べ竿ファンは限界に挑戦するのが好きなようです。


今年発売になった某メーカーのサケ竿はズームが付いているようですね。

これは今までになかったことで面白いと思います。メーターのサケをタモ入れするのかは分かりませんが、状況によってはずり上げでも角度の急なずり上げが必要な場面があります。(後ろに障害物がある等)

個人的には、あの軟らかい穂先ならば例えタモ入れしなくともズームがあれば便利だとは思います。


一方、RUDOW8500もそうですが手元にあるプロトもズームは付いていません。付ける予定もありません。

先端部が強ければズームなしでも十分寄せ、タモ入れが可能だからです。寄せの理屈だけで言えば先端部はもっと強くてもいい、しかし感度(これは実はさほど影響を受けないが)と持ち重り(こちらが長竿には重要)という問題が出て来るので今度のプロトは全長も含めバランスを見直し、先端部パワーの最適化を図っています。


ともあれ、このプロトのリリースはまだまだです。

残念ながら、サケ竿はいまだかなりマニアックです。延べ竿でここまでのヘビーなものがあることを知らない釣り人も多いです。

サケは期間限定、金銭的コストもかかることから、なかなか万人受けというわけにはいきません。

サケ竿というよりも、大物延べ竿という発想で見て行かないと、今後のサケ竿は頭打ちかもしれません。

当方も含め、サケ以外のターゲットにも着目し、色々なメーカーがヘビーな延べ竿を色々出して行ってこそ、新しい延べ竿の世界が開かれるのだと思います。


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5ピースフロートロッド、フロータニアのプロト!!

5ピースパックロッド、フロータニアフロートロッドのプロト
BoeCenシリーズ初のロッドとなるフロータニアのプロト。まだ改良が必要だ
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夏の終わり

 早いもので、といいますか、個人的には長かった8月も終わりですね。

な~~つのお~~わ~~り~~ という歌をいつも思い出しますが、今日は一気に気温が下がり秋めいてきたような感じがしました。

 さて、秋といえばサケ釣り、です。

現在サケ釣り用本流竿としてはRUDOW8500をラインナップしておりますが、今後はフロートフィッシングでの鮭釣りについても紹介、またタックルをラインナップできればと考えています。

フロートフィッシングとは言っても、実際的には脈釣り的なノンフロート釣法の方が圧倒的にやり易いと思います。

脈釣りというのはあまり海外では見かけないスタイルで、日本のシンプルな美が凝縮された釣りだと個人的には感じていますが如何でしょう。

極めて小さな錘でウキを使わず流れに乗せて手感でアタリを取る…繊細な感性が要求される釣りですね。

○号クラスの錘でのブッコミ釣りなら大抵の国で良く行われていますが、脈釣りとなると少ない気がします。

もっとも、日本の様な急峻な地形での渓流釣りというのがこのような手法を必要としたわけですが…北米の河川ではまさにフロートフィッシングで十分事足りますからね。

 いずれフロートロッドもBoeCenシリーズとしてラインナップできればと考えておりますが、まだまだ私自身もノンフロート釣法を突き詰めて最適なロッドを作っていく必要がありますので少なくとも今シーズンはリリースはございません…。テストも色々な方にして頂きたいのですがノンフロート釣法をやっている人はおそらく…いないでしょうからね。フロートロッドは欧米の各社が数多販売していますが、ノンフロート釣法対応となるとおそらくいまだかつて無いでしょう(ウキを使わない分感度が重要になりますが、一方でキャスティングもウキがないと不利になる分あまり小さなガイドでは使いにくくなります、)。調べたわけではありませんがおそらくセンターピンリールで脈釣りをしている欧米人はほとんどいないのではないでしょうか。今までのフロートロッドの流用ではノンフロートに最適化は出来ません。しかし一方でノンフロートをする方はごく少数でしょうから通常のフロートフィッシングやあるいはライトルアーフィッシングにも対応する必要があります。この公約数的なポイントを導き出すのが最も難しいのです…。POLE&LINEのロッドはどれもできるだけ汎用性をもたせるようにしています。

 新しい釣り方を考えるということは、釣りの大きな楽しみだと思います。釣りは競技では無く遊びなのですから、自由な発想でそれぞれがそれぞれの釣り方をすれば良いのでは、と思います。○○専用、などといった言葉に惑わされず…。

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The quiver 5 released

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新カープロッド CARP RANGE BUDDY のキャスティングテスト

カープロッドBUDDY
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新製品カープロッド、BUDDY 13ft 3lb 4ピース の開発

 TRAVELLER4に続く4ピースカープロッドとして、現在BUDDY 13ft 3lb 4pcsを開発、生産に入りましたところです。

このロッドについてはあまりこのブログでも触れずに開発を進めていました。単純にブログの更新をさぼっていただけであります…。

先代のTRAVELLER4より長い13ftのレングスが特徴で、まさにマルチパーパス・カープロッド。投げ釣りや万能竿としての使い方にも幅が広がりました。

正直、砂浜でのチョイ投げならまだしも、足場の高い堤防などからちょっと本格的に投げ釣りをするには12ftは少し短すぎる部分がありました。13ftですとほぼ4mということでかなり改善されたかと思います。もちろん、本物の投竿には敵いませんが、あくまでもマルチパーパス・カープロッドですので。カープロッドとしてのパフォーマンスは、2ピースや3ピースのカープロッドに引けを取らない出来になっていると思います。

ブランクスのフィニッシュもTRAVELLER4とは異なりグロスフィニッシュになり、見た目的にも少し印象が違うロッドになったかと思います。

それでいて価格はTRAVELLER4と同程度のリーズナブルなものとなる予定です。

 今年の秋ごろにはリリースできればと考えています。是非ご期待下さい。


※なお、TRAVELLER4は当該ページでもお知らせしておりますが生産終了、在庫もアウトレット品を僅かに残すのみとなっております。こちらも是非ご検討下さい。

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クイバースタイルロッドケース、ザ・クイバー5 正式バージョン完成

クイバースタイルロッドケース ザ・クイバー5
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ヨーロッパオオナマズ、GT、怪魚用 9ft 3ピース パックロッドについて

ヨーロッパオオナマズ用パックロッド
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クイバータイプロッドケース ザ・クイバー5 リリース決定

 おそらく日本メーカーでは唯一となるクイバータイプのロッドケースのリリースが決定しました。

LEELではすでにおなじみとなっていたこのタイプのロッドケースですが、日本メーカーのものは今までなかったように思います。

船釣りや磯釣りが主流でがっちりロッドを守らなければならないがために進化してきたハードタイプ主流の日本のロッドケースとは、この手のクイバーロッドケースは全く発想が逆です。

 すなわち、いかにready to use、すぐ使える状態で多くの竿を軽量かつコンパクトに持ち運べるか、ということに主眼が置かれているということです。車から釣り場までのそんなに長くない、しかも磯場等のように傷が付く恐れが少ない状況において、堅牢性よりもこのような観点に重きが置かれるのは当然と言えるでしょう。そう、クイバータイプロッドケースはカープフィッシングにおいて主流となって来たロッドケースなのですから。

 多くのカープフィッシングブランド、欧州シマノやダイワを始め、フォックスやKORUM、Greys、CHUB、ウィッチウッドやAVID CARP、そしてTrakkerなどが、それぞれ独自のクイバーをリリースしています。しかしいずれも、やはり欧州の釣り事情に最適な設計となっており、これが即ち、日本の釣り事情に最適かというと必ずしもそうではありませんでした。

 ザ・クイバー5がこういった欧州ブランドのクイバーとどう異なっているのか、一つは短めの全長、ただしKORUMのクイバーでも100cmという全長のモデルは2つあります。

 もう一つは幅広の設計。これはこの全長に対してで言えばかなり幅広の設計です。なぜならば、3ピースのみならず4ピースや5ピースといったマルチピースのロッドが人気上昇中の状況において、欧州のクイバーのように主に2ピースのスリムなカープロッドのみを想定した設計では収納しにくいロッドが出てきているからです。そう、ザ・クイバー5は、カープフィッシングのみならず堤防釣りや投げ釣り、あるいはルアー釣りまでを想定した、様々なロッドを収納可能なように設計されています。例えば竿尻収納部分。欧州のクイバーはスリムなグリップのカープロッドを想定しておりフルコルクのルアーロッドや並継の投竿等は入らない、といったものもあります。また3ピースロッドでガイドが2番や1番のセクションの最下部に付いている場合、このガイドが邪魔して入らないこともありました。そういったことを出来るだけ減らせるよう、竿尻収納部分は余裕をもったサイズ設計となっています。また、竿を固定するマジックテープ部分も、太い並継投竿等に対応するよう長めにとってあります。

 さらに、メイン収納部分を完全にジッパーで開閉可能なスタイルにしました。これはESPのクイバーにも見られる設計でザ・クイバー5唯一というわけではありませんが、通常のクイバーのようにメイン収納部分がまさに矢筒のように上からしかアクセスできないと、傘やテントといった大型長物を入れるしか使い道が無くなります。しかしカープフィッシングのコアなファンでない限り、こういったものをいつも持ち運ぶ人は少ないのではないでしょうか。それよりも、雑多な荷物、例えば、三脚やリグケース、着替えや諸々の荷物をまとめて収納でき、なおかつ簡単に取り出せるほうが実用性があると判断しました。サイドジッパーで完全に開閉可能なメイン収納部なら、底に溜まった荷物も容易に取り出せます。

 また、メイン収納部分にも竿を入れたいという方も多いと思います。これも、ジッパー方式なら上部分だけ開けておけば問題なく実現可能です。幅広なので例えばロッドポッドなどもメイン収納部分に収納できるので荷物を一つにまとめられます。

 ザ・クイバー5は2つのプロトバージョンを既に公開しておりますが、正式バージョンはバージョン2とほぼ同一になります。少し異なるのは、ショルダーストラップの位置とロゴ周りの素材です。より持ち運びしやすい設計としました。

 正式バージョンのリリースは8月ごろを予定しています。是非、日本の釣り事情に最適化された「ジャパンスタイル」クイバーをお試しください。


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BoecenをPOLE&LINE内に統合しました

今までセンターピンフィッシング、フロートフィッシングのアイテムをリリースしてきたBoeCenですが本格的に関連アイテムの充実を図る為POLE&LINE内に統合いたしました。今後はスピニングリールでのフロートフィッシング等のご紹介や関連アイテムのリリースを予定しております。日本ではまだまだ馴染みのないフロートフィッシング。単純に英国や北米のスタイルを流用するだけでなく日本の本流に合ったフロートフィッシングスタイルをご提案できればと考えております。

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CARP RANGE 始動!!

POLE&LINE カープレンジ カープフィッシング用タックル
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YouTube POLE&LINE ch 始めました

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サケ有効利用調査に想う

 だ んだんとサケ釣りのシーズンが近づいてきました。北海道ではとっくに、ですが、本州はこれからですね。サケの有効利用調査もだんだんと歴史が積み重ねられ ていき、徐々に市民権を得つつあるのかなと思います。北海道や福島県の河川で開催されなくなった所もありますが、一方で茨城や今年は栃木でも試験的に有効 利用調査がなされるようです。人口の多い首都圏付近でこのような動きが出ることは、サケ釣りの普及には喜ばしいことだと思います。

  サケの有効利用調査に対する意見は釣り人によっていろいろあるかと思いますが、「川でサケ釣りができる」ということの意義はとても大きなものがあると思い ます。とくに延べ竿で大物を狙う釣り人にとって、この釣りの存在は貴重なものです。おそらく、これだけのアタリが出て、これだけの引きが楽しめる釣りは、 川でのサケ釣り以外に延べ竿での大物釣りには無いのではないでしょうか。海でのスズキや黒鯛も本流竿のターゲットではありますが引きの強さでは瀬のサケに は敵いませんしアタリの数もサケほどは出ないでしょう。淡水だと鯉やソウギョ、ハクレンなどが良い引きはしますがおそらく多くの渓流・本流マンには魅力が 少ない魚種だと思われます。延べ竿という制約がある以上、或る程度コンパクトなフィールドで至近距離に寄ってくる大物というのは、本当に限られており、海 水ではさらに限られます。淡水も、アマゾンのような魚種の豊富な川ならまだしも、国内でサケに匹敵するサイズの魚は限られます。先にあげたコイ科の魚以外 には、イトウ、アカメ、雷魚、ビワコオオナマズ、一部の大型化したニジマスくらいでしょうか。いずれも、稀少性の高い魚であり、多くのアタリを得ることは 難しいのではないでしょうか。

  そんな中でサケ釣りは豊富なアタリと十分な引きで延べ竿大物釣りの醍醐味をしっかり味わえながら技術の習得にも最適な、しかも釣れる魚に魅力があると言う 3拍子揃った本当によく出来た釣りだと思います。有効利用調査という名目ながら、川でのサケ釣りが出来るということは本当に恵まれた機会だと思います。

  世界的にもサケ科の魚は貴重な水産資源として管理されており、多くの国ではその釣りに規制がかかります。しかし有効利用調査を除けば川でのサケ釣りは全面 的に禁止という現行の状況については、依然非常に厳しいものであることには変わりなく、議論の対象となるべきものでしょう。なんの制限もなく川でのサケ釣 りが認められれば遡上の性質上乱獲が起こることは必至でありこれは到底容認され得ないものでしょうが、一方で有効利用調査という名目が、釣り人以外にとっ て見ればいささか屁理屈の様な名称であり、この釣りへの偏見や誤解を生じかねないのではないかという危惧もあります。至極個人的には、法制度の兼ね合いも あるのでしょうが、はっきりと有料ライセンス制にして名称的にもオープンな形で行われるサケ釣りという形の方が、無用な批判を浴びないで済むような気もす るのですが、この辺り、皆さまはどうお考えになられるでしょうか。

 なにはともあれ、延べ竿での大物釣りを愛する人にとっては最高のターゲット、サケ釣りが今年もできるということに、この道筋を作って来られた方々に、敬意と感謝の念を抱かずにはいられません。ちなみに忠類川は今年で20周年となるのですね。本当に頭が下がる思いです。

 

                                                                                  文責:M

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釣りの功罪2 食べる魚を釣る釣り

 ややこしくなるのであえて先の記事とは分けて、食べる魚を釣る釣りの事について少しばかり書きたいと思います。私自身は食べる魚を釣る釣りはあまり罪悪感を感じないと書きましたが、釣りをしない人にとってはこれも批判の対象になり得ると思いますし、私自身何ら問題が無いとも思ってはいません。よほどの菜食主義者でも無い限り、どんな人でも魚を食べるわけですから、釣り人にしてみれば、スーパーで買った魚だって誰かが釣ったり網ですくったものなのだから同じだということになり、何が問題なのだと思う人も多い事でしょう。しかし少し考えてみれば、もしも一人ひとりが自分の食べる魚を釣りに行っていたら、なんと非効率な「漁業」となっているでしょう。各自が好きな釣り場へ行き、僅かの魚しか釣れないのに多くのガソリンの浪費と食物とネガカリと外道の死と釣り場の荒廃をもたらすことになります。近代漁業にも多くの問題がありますが、単純に自然負荷だけを見れば、プロが効率良く捕獲したスーパーの魚に頼らせて頂く方が賢明の様に思います。

 釣った魚は食べるからいい、というのは、釣りをしない人からすれば単なる自己満足のいい訳に聞こえるかもしれません。それならスーパーで買えば、ということになる。けれど、釣り人は、そうじゃあないんだと言う。何が、違うのか。結局、自分の楽しみのために釣りがあって、食べるのは、副産物でしかないことが殆どなのです。だからこその、「遊漁」なのだと思います。

 多くの賢明な釣り人の方は、食べるから全てが許される、全てが肯定されると言う思考はされていないと思います。現代の釣りは、例え釣った魚を食べたとしても、単純に食糧捕獲の釣りや漁とは性格が異なります。かかる自然負荷も違う。だからこそ、釣った魚を食べようが、食べまいが、結局のところ、釣りという行為の原罪については認識せざるを得ないと言うことなのだと思います。これは決して卑屈になれとか釣りは悪だと言うことではもちろんなく、これを認識すると言うことが全ての始まりだと思うのです。結局は、人間は自然の支配下にあって、決してその逆ではなく、踊っているのは自然ではなく、踊らされているのが人間です。釣りは確かに自然や魚を傷つける、そのことに釣り人は悩み、後悔もする、それでも、釣りをする人はつまるところ、自然が好きで魚が好き、やっぱり魚の顔を見たいのです。スーパーでぶつ切りになった死んだ魚ではなく、大自然の中で生き生きとした黒い目の魚の顔を。だからこそ、今日も釣り場に向かうのではないでしょうか。少しばかりの罪悪感と、大きな希望と期待を持ちながら。

 

                                                                                 文責:M

 

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釣りの功罪

 たまには少しカタイ話もしてみましょうか、というほどのことでもないのですが、釣りをしているとどうしてもこのキーワードが頭から離れないことがあります。

私は食べる魚について言えば、これを釣ることにあまり罪悪感は感じないのですが、食べない魚を釣る時には、少し考えさせられることがあります。つまり、釣りが単なる魚いじめになっていないかということです。正直なところ、いかに釣りを魚との遊びだとか触れ合いだとか、綺麗事を並べても、結局のところは魚にしてみれば迷惑この上ない話でしょう。一方で私を含め多くの釣り人は魚のことが大好きです。特に、いや、これは勝手な想像かもしれませんが、魚の飼育をしたことのある釣り人はとりわけ魚の事が好きな人が多いように思います。魚の飼育そのものもかなり魚にとって見ればいい迷惑でしょうが、しかし、理屈はともあれ、魚を飼う人は魚がとっても好きであることが多いものです。そして、同じ魚関連の趣味として釣りを始めたりするわけですが(無論順序は逆のパターンもありましょう)、ここで自己矛盾に気づきます。そう、食べない魚釣りは魚いじめにしかなっていないのでは?という問題です。

 この問題に他の釣り人がどのような自己回答(言い訳とも言う)を用意してきたのか、私にはわかりませんが、少なくとも私自身としては、「自然に触れない人間に自然の大切さは分からない、しかし、自然に触れることは自然の血を少しばかりは見ることにもなる」という理屈を用いて来ました。魚を飼うということについても、同じ理屈を使ったものです。もっとも、今の私は魚を飼うことはやめましたが。

 釣りをしないことが自然には一番良い、という意見は正論だと思います。どんなに注意深く釣りをしても、かならず食べられない外道は掛かり、必ず回収できないネガカリは起こります。だから、釣りは魚や自然に優しくない、本当にこれらが好きならば、釣りを止めなさいと、言われたとしても反論はできないでしょう。

しかし同時に、私自身には、先の「自然に触れない人間に自然の大切さは分からない」という部分への確信はあります。根拠はありませんが。ですので、まったくアウトドアの趣味の無い人に、あなたは自然や魚の敵ですねと言われても反論はしません。しかし、同時にそのような人が自然や魚の味方だとも思いません。

 「遊漁」という言葉を見るたびに、少し憂鬱な気持ちになります。少なくとも、魚にとって見ればたまったものではないでしょう。このようなナイーブな思考は、本来釣り人にあるまじきものなのかもしれません。しかし同時に、これを失くした釣り人はとても危うい存在であるとも思えます。私は、このようなナイーブな思考が「まだ出来ている」と、自分をほめてやることにしています。これをしなくなった時、私は先のアウトドアの趣味の無い人が言う「自然や魚の敵」に本当になってしまう様な気がするからです。

 釣りの抱える自己矛盾に、そんなもの関係ない、ただ魚の引きが好きだからいい、と断言する人、私の様な屁理屈を並べる人、食べる魚しか釣りませんという人(それでも毒魚など外道への対応やねがかりゴミ問題などは残りますが)、色々だと思います。あるいは、野生への影響を考える人は、管釣りだけをするようになるかもしれません。自然の生態系全体への影響を考えるのか、動物愛護的に魚の扱いに焦点を置くのか、それだけでも選択はいかようにも増えて行くでしょう。そのどれもが、それぞれにとっても正解であり、あるいは他人にとっての誤答であるかもしれません。

 釣りの人口はさして多くはなっていないようですが、それでも人口の、特に男性で言えば10人に1人程度は釣りの趣味や経験があるのではないかと思います。個人的には、むやみな釣り人口の拡大は望んでいません。釣りは直接魚の命を奪うものですから、どんな外道もやさしくリリースでき、少なくとも針を飲まれる等して死んだ外道に、少なからざる罪悪感を感じられるような人だけが釣り人でいてほしいと思います。あるいは、そうでなかった人が、釣りを通してそうなってくれるなら、私の屁理屈な確信が、少しばかり証明されることになるのでしょうか、検証のしようもないですが、そうあってほしいと、心の中で願っています。

                                                                                 文責:M

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BoeCen商品が雑誌で紹介されました

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RUDOW8500とA.P.S8500の違い

 サケ釣りのシーズンもだんだん近づいてきました。有効利用調査の申し込みも始まっていますね。

POLE&LINEのサケ竿として最初にリリースされたA.P.S8500と、今回新たに発売となったRUDOW8500の違いについて、いくつか問い合わせを頂きましたのでここで少しまとめてお答えさせていただきたいと思います。


 この2つの竿、見た目も白と黒で真逆なのですが、竿の質そのものもかなり違います、同じなのは…長さだけですかね。

はっきり言ってパワーでは圧倒的にRUDOW8500の方が強いです。適合ラインの上限は4号で同じじゃない?と思われた方、いらっしゃるかもしれませんが、下限の違いでお察しいただきたいと思います。正直なところ、RUDOW8500のテストでは5号や6号は普通に使われていたのですが、公称として6号などと書くとどうしてもそれ以上のラインを使う方が増えるのであえてそうはしませんでした。サケなどの大物釣りでは、釣り人の性としてついつい適合ラインよりも上のラインを使いたい、あるいは使ってしまう方は多いと思います。各社サケ釣り用の竿の適合ラインは殆どが4号だと思いますが、実際にはそれ以上のラインを使う人も多いでしょう。また、4号上限の竿でも各社硬さや強さはかなり差があります。ある種、4号上限と言うのはあまり意味のない表記なのかなとも思います。しかし、あくまで公称としては、サケならこの辺りを上限と書く、そういう感が無きにしも非ず、ではあります。


 POLE&LINEでは今回のRUDOW8500から、適合ラインに「参考」の冠をつけました。これは、先述の通り適合ラインの形骸化と言いますか、実際問題、竿の使い方次第で使えるラインの幅はいかようにも変化するため、単純に適合ラインと断じて表記するのは不適当ではないかと考えたためです。特に大物相手の本流竿では、やり取りの手法一つで破損につながるか否かは相当変わります。バットは6号でも大丈夫なはずの竿も立てすぎれば先端部は6号に耐えるだけのパワーはないでしょう。そんなところから、適合ラインと言うのは本当に扱いが難しく、断定できない部分が大きいものです。


 話が逸れましたが、実質的なパワーで言えばRUDOW8500はAPS8500を超えています。特に先端部のパワーは倍ほどあると考えて頂いて結構です。また、APS8500は振り込みが大変、という声を幾度か頂いておりましたが、先調子寄りの竿はどうしても振り込みが慣れが要ります。その点RUDOW8500は胴調子で、パワフルですが振込みはAPSよりも楽であると思います。


 次に重さ、自重の点ではおおよそ80gの差がありますが、それ以上のパワーの差があるのでいたしかたない部分です。APSは30mmを越える元径で正直風には弱い部分がありましたがRUDOW8500は28mmとこのパワーにしては細身になっていますので、風の抵抗と言う点ではある程度相殺してくれるでしょう。


 他の点では、RUDOW8500は免責保証書付、日本製であることなどが違いでしょうか。最後に、価格も違いますが、性能・品質面を考えれば大きな差ではないと思います。

文責:M

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RUDOW8500リリース!!

サケ釣り用本流竿RUDOW8500 モンスターを足元まで寄せる力
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ロゴが変わりました

 すでにお気付きの方が殆どかもしれませんがロゴが変わりました。

また、表記もPole and Line から POLE & LINEへと変更となりました。既にタグなどではこちらのロゴも用いておりましたが、今後発売する竿の方向性なども今までの竿とは少々変わってくるかと思います。

新製品もそろそろリリースできるかと思います。今後のPOLE & LINEにどうぞご期待下さい。

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ブログによくある話

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"Gaun"82-90で本流釣り

本流竿Gaunと41cmのニジマス
放流物のようだがなかなかの引きを味わわせてくれた41cmのニジマスと本流竿"Gaun"82-90
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4本継の鯉竿、TRAVELLER4 12' 3.00lb

やっとリリースにこぎつけた4本継鯉竿TRAVELLER4
やっとリリースにこぎつけた4本継鯉竿TRAVELLER4
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本流竿の海での可能性

本流竿での海釣りでメインターゲットの一つはクロダイ類だろう
本流竿での海釣りでメインターゲットの一つはクロダイ類だろう

 前回の記事でも書きましたが夏は個人的に海釣りがメインなのですが、やはりここでも本流竿を使いたくなるのが延べ竿ファンの

一人としていたしかたない性でもあります。

本流釣り新たなるフィールド でも紹介していますが、本流竿の海でのターゲットはまずクロダイの類が挙げられると思います。

私が行く釣り場はキチヌ、キビレが殆どなのですが、これほど本流竿のターゲットとして的確な魚はなかなかいないと思います。

魚のサイズ、延べ竿で届く範囲で釣れること、そして、魚の人気ということからも申し分のないものがあります。

 

 クロダイサイズの魚は、そこそこの本流竿であれば比較的余裕をもって、しかしスリリングなやりとりも楽しめるので、もっとも

ターゲットとして良いかと思います。

私が他に本流竿で釣る海の魚と言えば、以下のようなものがありますが、どれもそれぞれ難点があります。

 

・根魚類…多くの場合穴釣りになりますが大抵の場合本流竿は長すぎる、しかし渓流竿だと水深が足らず、結局リールが欲しくなる

・アジやサバなどの回遊魚…なかなか大きなサイズは延べ竿で届く範囲には来ない、せいぜいサバが来る程度、

            引きは確かに強いが少し趣に欠ける

・キス、メゴチ…砂浜での渚釣りはこの時期よくやりますが、引きという点では今一つ、渓流竿の方が楽しめる

・カワハギやベラなど五目釣り…引きに欠ける、「大物一本を狙って…」という本流釣りの本来の趣に欠ける…(回遊魚もキス・メゴチも

               同じですが)

・スズキ…フッコサイズまでならまだしも大きなサイズは個人的にめったに釣れません…。

・ボラ…よく釣れ引きもありますが…

 

とまあ、結局どれも一長一短あるのです。

腕の良い人はスズキはとても面白いターゲットになるでしょうが。

一方クロダイ類は渚釣りで横の釣りも楽しめ、堤防で落とし込みスタイルで縦の釣りも楽しめ、時には数釣りも楽しめるといういいこと尽くしの

魚です。インターネットで少し調べただけでも、延べ竿で渚釣りや堤防の黒鯛釣りをされている方は既にそれなりにいらっしゃるのが分かります。

やはり、延べ竿と黒鯛は比較的相性のいい関係性が伺えます。

 

さて、人がやっていないことにどうしても興味がある私の次なるターゲットは…

・サーフでのヒラメ

・延べ竿エギング

・マイボートで本流竿(ダム湖での長尺ヘラ竿をイメージ)

 

笑われそうな話ですが、案外本人は本気だったりします。

 

                                                  文責 M

 

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夏は海

カサゴ

 この時期はもっぱら海に出かけることが多いです。

夏と言えば海、対象魚も多いですからね。

気軽にふらりと行けるのも海の魅力です。堤防釣りなら大掛かりな道具も必要無いですからね。

 

 といいつつも、実は最近の海釣りは全て開発中のカープロッドで行っています。

まあ、ボツになったサンプルロッドとか、現在もテスト中のロッドとか、色々使っていますが、どれもカープロッドです。

サーフからのキス釣り等にはカープロッドは十分使えますね。ただし先調子のモデルで無いと持ち重りがします。

正直なところ、これには硬めのルアー竿の方がまだ向いている気がします。

ブッコミの投げ釣りにはかなり良いと思います。やはり置き竿の釣りの竿ですね。

胴調子のカープロッドはやりとりが投竿に比べて面白いですね。ただあまりヘビー級の錘を背負えないのは少し難点です。

泳がせ釣り、これにはベストではないでしょうか?まあこの釣りはあまり竿に左右される釣りでは無いですが。

 

 しかし堤防からの魚ですと、どうにもカープロッドに対しては物足りないサイズの魚が多いですね。

全く個人的には、1.75lb程度のバーベルロッドや9ftくらいのストーカーロッドなんていうのもリリースしたいのですが、

まあこれらが売れることは…まだまだなさそうですよね。

しかしこう言った竿なら堤防の魚でも楽しめそうな気がしますね。

 

 日本の釣り人口の内、海釣りはそのほとんどを占めていると言われています。カープフィッシングをされる方でも、海釣りをする方は

多いのではないでしょうか。今は多くのメーカーが「専門」のロッドを色々出して、あたかもそれ以外の釣りには使ってはいけないかのような

意識を植え付けている気がしますが、もっと釣りは自由であるべきだし、異なる分野の相互交流が新たな楽しみを生み出すことだってあるはずです。

そう考えると、カープロッドや、あるいはLEELで取り扱っている海外の内水面ロッドでも、もっとも身近な海釣りへの応用を考えてみても

いいのではないかなと思う、今日この頃です。

 

 P.S 本流竿の海での活用も、最近は少しずつ行われているようですね

 

 

                                                        文責 M

 

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竿を立てるか寝かせるか

肉厚の70cmクラスの鯉の引きはなかなか楽しい
肉厚の70cmクラスの鯉の引きはなかなか楽しい
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カープロッドの開発状況

 このサイトですが、本流釣り関係と共にカープロッドで検索して来られる方も結構いらっしゃるようです。

まあ、本流竿とカープロッドという組み合わせもどうかと思いますが、これについてはまたの機会として、

ともかく、現在のカープロッドの開発状況を少しだけ書かせていただこうかと思います。

 

 実は1回目の試作は数ヶ月前に既に作ったのですが、出来が満足できるものでは無かったので一から作り直して

います。ブランクスそのものもそうですが、デザインも大幅に変更したため本当に一からのやり直しになりました。

で、なんとかプロトが完成したのが先日でして、大枠は出来てきたかなといったところです。これからテストを重ねて

行って量産に入りたいと思っています。

 

 LEELの方はカープロッド関係のお客様が多いのでそちらから飛んで来られた方からも「いったいいつになったら

Pole and Lineのカープロッドは出来るの?」といったお問い合わせを何度か頂いておりますが、もうしばらくお待ち

頂ければと思います。

 

 プロトは見た目は結構いい感じで仕上がっています。それでも、実際テストすると意外な盲点が見つかったりもするものです。

しっかりテストを重ねて良いロッドになるように頑張っていきたいと思います。

 

 

 

                                                      文責:M

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鯉釣りと本流釣り

鯉は本流釣りの良い練習相手になる
鯉は本流釣りの良い練習相手になる
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たまには近くの渓流でのんびりと…

Pole and Line“Gaun” で小さなアマゴ…
あまりに小さなアマゴ…
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Pole and Line スタッフによるブログをはじめました

突然ですが、この度Pole and Line サイト上にこのブログを設置する事に致しました。

 

新商品の開発やテスト、あるいは釣行記、そして釣りに関して考えること等…色々

綴っていきたいと思っています。

 

出来るだけ頻繁に更新して行くつもりでおりますので、どうぞよろしくお願いします。

 

M (Pole and Line スタッフ)

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