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釣りと熱帯魚飼育(アクアリウム)

 アクアリウム好きのアングラー、というのはどれだけいるのかは知らないが、少なくとも私はこれに該当する。そんなバックグラウンドをご了承頂いた上で、読み進めて頂きたいのであるが、どうもこの2つの趣味は私が思っていたほど親和性の高いものではないようであることに少々驚いている昨今である。

 というのも、魚が好きという点でこの2つの趣味の人々はかなり共通項があるにもかかわらず、お互いをあまり良く思っていない方も多いようなのである。

 いや、厳密に言えば、アクアリスト側にアングラーへの拒否反応を示される方が一定程度いて、逆、つまりアングラー側がアクアリストに対して何らかの敵対感情をもつことは少ない、より正確に言えば、あまり気にもしていないといった方がよいのだろうが、そういう状況が見てとれる。

 アングラー嫌いのアクアリストの言い分としては、食べるならまだしもリリースするだけの釣りが魚をいじめているだけにしか見えないという、釣りに興味のない一般の方から寄せられる批判とほぼ同じようなものが多い。いわば、自身のペットをいじめているようなものであるから、犬や猫に置き換えると餌のついた紐で引っ張ってきて離してやるようなものであるから(正確には針でひっかけるのであるからよりダメージはある)、彼らの言い分は至極まっとうである。かくいう私もアングラーである前にアクアリストであったから、当初食べない釣りに関してはあまりやる気が起きなかった。川魚はほとんど持ち帰り飼育していたし、海の魚は毒魚を除きすべて食べていた。

 しかし釣りを長くしていると、リリースの釣りも悪くないなと思えるようになってきた。というのも、きちんと配慮をすればリリース後の生存率はかなり高いことは実証されている上に経験的にも明らかであるし、そもそも釣り上げた魚を家に持ち帰り飼育してもほとんどすぐ死ぬなどという事はない。リリースが難しいのは相当の巨大魚や特定の魚であって、きちんとした配慮がなされた場合、魚への死活的な問題は起きにくい。

 それでも魚への負荷をかけていること自体は事実であって、間接的に傷口からの感染症のリスク等を通じて生存率を下げているのは間違いない。本当に魚の事を想うなら釣りなどしないのが一番である。

 だが、これはアクアリウムにも言えることであって、本当に魚を想うなら水槽に閉じ込めておくべきではないし、それが完全養殖の個体であり、そもそも自然に放せない個体であっても、水槽飼育を肯定することはできない。水槽飼育には間接的に無駄なエネルギーがかかり環境負荷がかかっているし、養殖行為そのものも同様である。流行の水草水槽やサンゴ水槽などは特に電気代などコストもかかる。コストがかかるという事はイコール環境負荷が高いということである。

 結局のところ、アクアリウムは間接的に、リリースの釣りは直接的に魚や環境に負荷をかけているのであって、前者は一見魚をいたわる為の行為が負荷となり、後者は明らかに魚にダメージを与える行為によって負荷をかけているのである。そして、古今東西、人間の性である、目に見えるものを過大評価し、目に見えないものは過小評価するという原理の下で、前者よりも後者が多く批判にさらされているのだろう。

 少し意地悪な見方を加えれば、水槽で維持されている魚というのは人間を楽しませるだけで一生を終え、生態系的にはなんらの意味も持たないままの生物である。土に埋めてもらえた魚はよいが、ゴミ箱に入れられた魚は自身の命を何ら繋ぐことなくその生涯を終える。一方、下手な釣り師によって殺された魚は、水鳥や微生物に命を繋ぐことはできるかもしれない。

 それでもアングラーを毛嫌いするアクアリストは、いわゆる動物愛護的思想の強いアクアリストではないだろうかと想像する。生理的に、魚がいじめられているのは耐えられないという人々であり、これはこれで一つの思想であるから善悪を判断はできない。ただ、私の属する、生態系への理解と愛着をベースとするアクアリストとは、同じアクアリストでも少し考え方が違うのだろう。

 さらに究極に自然や生態系や種を愛する人からすれば、アクアリウムも釣りも共に悪であろう。どちらも間接的、直接的の違いはあれど生態系や自然環境に負荷をかけているのは間違いない。そしてきっと彼らは山奥で自給自足の生活をしているに違いない。間違っても、都市部の高環境負荷な生活を謳歌していることはないだろう。いや、枝1本おるのも怖いから、コンクリートジャングルでの生活をしているのだろうか?

 私は少なくとも、アクアリストとアングラーは手を繋ぐべきだと考えている。この両者が仲たがいをしているようでは、もし本当に魚や自然の大切さを知りそれを広めようとしているのならば、戦うべき相手は椅子に深く腰掛けたまま無機物に囲まれ字と画面の上でだけ自然「保護」を唱えるような人々であり、屋内か屋外か、接し方は違えど少なくとも日々魚に接し、その美しさ、その大切さに触れているようなお互いではない。私自身、一アクアリストとして、本命以外の魚に目もくれず外道を蹴飛ばす様なアングラー(といってよいのかは知らぬがそういう人)に対して思う所がないわけではないが、全く自然と触れ合うことなく生きる人よりは、いつか本当の魚好きになってくれるはずだという確信、いや、希望はある。アクアリストやアングラーが自然に恩返しする形とは、人工繁殖による種の保護への貢献や生息地の保護といった具体的なものよりもむしろ、常に魚を通じ自然に触れている、ということそのものではないだろうか。人は常に触れているものを、壊してしまおうとは思わないものであるから。

 

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「フツウ」と「個性」

価値相対主義の影響かは知らぬが、「個性」の尊重が声高に叫ばれる時代が世紀末ごろからあったように思う。現代でも、基本的に潮流は”そちら”の方向で変化はしていないと見えるが、いかがだろうか。

 

さて、「個性」と対極にあるのが、標準化されたモノとしての「フツウ」だろう。

 

かつての日本社会では、いや、多くの先進国と呼ばれる国々でも多かれすくなかれ、これは経験しているはずだが、「フツウ」に標準化された勤労者たちが効率のよい組織社会を形成し、経済成長に寄与してきた時代があった。


「フツウ」は集団全体の利を考えればもっとも合理的なシステムである。考えてみればよい。自動車の燃料機関に於いて、各々のパーツは見事に標準化され、エラーなく規則どおりに動く。もしも各々が勝手な方向を向き動いたとしたら、燃料は漏れ車体は暴発的爆発により吹き飛んでいるに違いない。


組織も大きな目で見れば燃料機関と同じである。


今でこそ、社員や社会構成員各々の自発的・創造的な活動が新たな価値を生む、などと綺麗ごとが流布されているが、かつては各分野に分業された人材の機械的統合で日本を含めた多くの先進国は物質的豊かさを作り上げた。


「自発的、創造的~云々」などというフレーズは、第三次産業をベースとした、いわば物質的には相当満たされた上でのビジネスモデルに、辛うじて適用されるもので、所詮第一次・第二次産業ベースの成長には、やはり標準化された「フツウ」の機械的統合組織がもっとも有効であることに異論は少ないだろう。そして、今のところ、多くの発展途上国もこの轍を通ることを避け切れていない。


しかし、この「フツウ」による標準化モデルには、「フツウ」化により歯車と化される個々への配慮などは微塵もない。故に、昨今の先進国では、これに対するアンチテーゼとして、「個性」重視の創造型ビジネスモデルなどがちやほやされているのであろう、しかし、戦後の焼け野原において、最初からこのモデルを採っていたら、おそらく今の日本の物質的豊かさは存在しなかっただろう。


あくまでこのモデルは、ある程度成熟した社会、産業、経済の上に成り立つものである。というのも、「個性」モデルの生産力は「フツウ」モデルにはるか及ばないし、更に言えば、「個性」モデルでどれだけ優れたアイデアや企画が出ても、実際にモノを生産するのには「フツウ」モデルが極めて最適な大量生産が必須であるからである。

 

逆に考えれば、成熟した先進国では、「フツウ」な人材によるマスプロは人件費の安い海外に任せれば済む話で、「個性」を云々かんぬん言える一種の”余裕”あるいは、「フツウ」の不必要性が生じているだけなのかもしれない。


先進国の個々人は、「個性」を尊重されて一見幸せそうに見えるが、実際のところは幸せの恩着せのような一面もある。

 

「個性」を大事にといわれながら、現実社会には、あらゆる「個性」を許容する能力も、心構えも、そもそもその意思も、実は微塵もない。排他的な個性、攻撃的な個性、内向的な個性、非生産的な個性、これらはすべて、「個性」は大事と言う社会で「個性」としてすら認められず、単なる「欠陥」として扱われる存在であり続けている。


「個性」尊重社会は、明るい、楽しい、協調的な「個性」限定の、いわばセミオーダー的選択論であって、決して純粋な価値相対主義的多文化社会とは異なる。


そんな中、どれも似たり寄ったりなオプションのうちで、自らの「個性」を身につけていかなければならない先進国の個々人は、あらかじめ標準化された「フツウ」に準拠しさえすればいいかつての社会の個々人より、いわば生きるハードルは上がっているのかもしれない。


本当の「個性」を出せばそれは社会には受容されない、しかしなんらかの「個性」を出さないと生き残れない。そんな中で、先進国の個々人は、半ば嫌々に決められた少ないオプションのカタログをめくりながら、仕方なく”ましな”「個性」を購入するのである。

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過ぎ去りし日は穏やかであった

人はしばしば過去を懐かしみ、懐古主義に走る。

 

今を憂い、未来は更に憂い、過去をあたかも栄光の日々のように捉える。

 

思うに、其処には2つの不可避な作用が働いているようだ。

 


一つは、記憶の美化作用であろう。心理的防御策として、人はいやな記憶を一定程度抹消する作用を有しているようである。もっとも、酷く過酷な記憶を得たときはトラウマとなって増幅作用する場合もあるようだが。

 

 

 

過去の日々にもおそらくは数多の苦痛と苦難があったに違いない。

 

しかしながら、この抹消作用によって過去は少なからず美化を受けている。

 


もう一つは、過去は確定しているという事実からの安心感であろう。

 

過去に苦痛や苦難があったとしても、それはあくまでも過ぎし故に既知のことであり、しかも、今こうして回顧している余裕があるということは、致命的な苦痛や苦難では無かったということの証明でもある。

よほどの災難や苦難を背負っていない限り、過去は今をそれほど侵食しない、安全な既知の事実の連続なのである。そして、単純に既知であるゆえ親しみを持つ。


一方の今や未来は非常に流動的かつ不確定であり、我々の制御下に無い。故に不安を覚え、既知でないが故に親しみを持てず、嫌悪感を生じせしめる。過去に思いを馳せる時、人は束の間神になったような気分になっている。即ち、事象の全て、事の顛末全てを知っている、全知全能の神になれるのは、過去に思いを馳せる時以外に有り得ない。


そんなよい気分になれる過去に、人はいつも惹かれる運命にある。幾ばくかの苦き想い出がある方も多かろう。しかし、しばしば苦さの中に甘さがある。過ぎ去りし日は、穏やかであったのだ。少なくとも、今の見地から見れば。

不安定、故に夢あり

私がかつて学生だった頃に、とある教師から聞いた言葉がある。

 

その方曰く、教師になるのは夢だったが、実際に合格通知を手にした際、嬉しさと共に、一種の喪失感があったという。彼女はその理由を、就職以前は無限にあった就職選択先が実際に教師という一つのものに決定されたことで、他のあらゆる可能性が消失したことによるものだと続けた。

 

事実、夢とは、不確定ゆえに存在するといってよい。

 

これは、ダブルミーニングとしての表現である。

 

即ち、夢の成立要件に不確定さ、不安定さがあるということ。そして、もう一つは、夢そのものに不確定性、不安定性があるというもの。


まず一つ目の意味としての夢の不確定性から考えてみよう。

 

とある状態に憧れ渇望したとして、それが現実のものとなったとき、もはやそれは夢ではなく事実となる。夢とは、現実の対岸に存在しなければならない運命にある。

即ち、夢は「そうなるかどうかわからない」不確定の状況でなければ夢でありえない。


冒頭の教師の話も、主にはこの意義で夢の消失が起こったといえる。

しかし、彼女の言説で着目したいのは、夢の現実化による消失というこの意義よりもむしろ、「他のあらゆる可能性が消失したことによる」喪失感、夢の消滅である。

 

夢が現実化することによる夢の消失は、極めて単純化された思考で考えれば、むしろ言葉上の遷移でしかなく、これが即ち多大な喪失感を生み出すとは帰結しにくい。

 

もちろん、心理学的にバーンアウト現象などの類似現象は認められようが、必ずしも生じる現象ともいえないであろうし、夢の現実化は達成感を生み出すという方が一般的に認知されやすいというものだろう。


そこで、他の可能性の消失による喪失感が問題となる。

 

これは即ち、可能性と夢の関係を表していると考えられる。


可能性と夢。これは、先述の夢と不確定性の2つめの意味である、夢そのものに不確定性、不安定性があるというフレーズに関係している。


夢とは、実は明瞭な輪郭線によってはっきりと認識できる未来予想図ではなく、むしろぼんやりと、時に流動的でどのようにも変化しうる、極めて不確定かつ不安定な存在である。人がある夢を描くとき、其の細部まで描くことは稀である。それはもはや計画やプランと呼べる類のもので、そこまで描けるときそれは相当の実現可能性が担保されていようから、もはやそれは夢から現実へと遷移途中にある、「半夢」とでも呼べる状態にある。


人が夢と呼ぶものは、かなり実現可能性に疑問符が付いており、故にその細部まで描きたくても描けないものである。そして、人の夢は時間の経過や心理変化などにより極めて流動的に変化する。この意味で、夢はそれ自体が不確定で不安定なものである。


しかし、更に進めて、実は夢とは、あらゆる可能性が仲良く同居している、悪く言えば極めて不安定な状態そのものを言うのではないかということも出来る。

 

話を戻して冒頭の教師の言葉にもある、「あらゆる可能性」が存在している状態、これこそが夢そのものではないだろうか。


冒頭の教師について、教師になるということは確かに夢であったのだろうが、それは夢の代表であって、他のあらゆる可能性を完全に打ち消すほどのものではなかったのかもしれない。実際、人はある夢を描きつつも、100%の自信と確信を持ってその夢が全てといえる人は少ない。

 

どこかで、別の可能性や、其の夢が現実となったときに起こるであろう不安や心配を抱えながら、淡い夢を描くものである。


そんな中で、どの可能性も実現していない、あらゆる可能性が存在している状態は、不安定で居心地の悪い、まるで思春期や青春の代名詞のような時期であろうが、多くの人がこのような時期に苦くも甘い顧みを行うように、かえって至福のときである場合があるように思う。

 

本当の夢とは、全ての可能性が燦燦と輝きながら宙を浮くような、そんな状態にこそ存在するのではないだろうか。その意味でも、子供には夢があり、極めて言えば、生まれたての赤子は最大級の夢に包まれているというのは正しい。

 

そうならば、人が夢の実現と呼ぶ、特定の状態の選択、現実化は、二重の意味で夢の消失である。

 

一つは、先に言葉上の遷移、言うならば言葉遊びと揶揄できよう意味の上で。

 

もう一つは、不安定という真なる夢から転げ落ち特定の状態(現実化された夢)に落ち着くという、少し逆説的な意味の上で。

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すべては道連れに…

一億総中流等という言葉はもはや過去のものとなり、昨今では格差社会は叫ばれて久しい。

しかし、それでも世界的に見ればこの国は中流の王国であり、なにより、そのメンタリティが均等性を求める性質を強く有しているように思われる。


みんなが平等に、みんなで手を取り合って…というとかなり胡散臭く感じるかもしれないが、言い方を変えれば、他人と同じ位に、他人がそうしているから、といった思考回路は、誰もが自覚する所であるだろう。


これはよい部分もあるのだが、悪い方向にも働く。とりわけ、出る杭は打たれるという、昔ながらの格言が端的にその副作用を現している。


自分が抜け出すのが無理なら、抜け出す他者の手を取り引きずり込めばいい。

 

更に頭を押さえて沈められれば尚良い。


そんな意識が、あってかは知らぬが、傍から見ればそういう状況は、確かにしばしば目にする。子供の優等生虐めに始まり、社会人に於いては出世の速いエリート批判のみならず自由人叩きや独身貴族叩きなど、多くの場面でこういった状況は普通に見られる。

 

自分の隣に成功者が居るならば、その成功者を超えるほどに成功を目指すのを正の競争とするならば、こういった足の引っ張り合いは負の競争と呼べる。その裏には、もはや隣の成功者を絶対に超えられない諸般の事情が存在する。


ある人が壮大な夢を描いたとして、多くの他者は無理だ無理だと五月蝿いばかりに騒ぎ立てるだろう。本当に無理だと思っているならば、黙ってそうしておけばいいものを、あたかもその挑戦者の気力を削ごうとするかの如くに、必死になって無理だコールを続けるのだ。


そこにあるのは、無謀な挑戦者への親切心などではなく、もしも挑戦者が成功したら自身は絶対に超えられないほどの成功者になってしまうという危機感、それを未然に防ぎたいという意識そのものだろう。


様々な事情から溜まり場に溜まっている人々は、そこから荒れ狂う滝を登り上流を目指す者の足をとにかく引っ張ることに躍起になる。自身が見たこともないような別世界を、誰もが見ずにその生を終えるのならまだしも、一人抜きん出てその異世界を経験するなどということは、断じて許しがたいのである。


彼らは挑戦者が発する「やはり無理だよね」という言葉を、手薬煉をひいて待っている。その一言で彼らの絶対的敗北感は遥か彼方へ遠ざかり、暖かな安堵の日差しが差すのだろう。

 

それでも挑戦者が一歩を踏み出そうものなら、彼らはその足を力の限り引っ張ってその一歩を阻止するだろう。溜まり場人生への道連れを、何としてでも強制するだろう。

 

それを振り払えたものだけが、最大最高の賭けに出る権利を手にする。ここで成功すれば、かの溜まり場は自らの糞積場になるだろうし、逆に失敗すれば、自身が彼らの糞積場に身を置く事になるだろう。


みんなが手を取り合って笑える世界など、空想の産物であることは分かっているが、仮にそれが存在するならば、それはかの溜まり場世界の美化、それもかなり無理やりな、

であろう。みんなで手を取り合っているのは、そこから抜きん出ようとする者をすぐに引っ張る為の、実に見事な隠れ戦術であったのだ!


この負の競争に、違和感を覚える人は少なくないはずだ。そう思いたい。

 

いや、一方で確かにこういう形の負け回避もあっていいのかもしれない。しかし、しかしである。なんだか釈然としないのは、青臭い美意識がそうさせているのだろうか…?

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希少な「一人」

人は必ず一人で生まれ、一人で死ぬ。

 

あの世とこの世の間の旅路は、いつも一人席に座っている。

しかし、少なくともこの世に居る間に、人はどれだけの時間、一人で居ることができるだろうか。


この過密化した社会に於いて、一人で居るということは極めて困難である。

 

ここで言う一人で居るとは、他人の目に触れず、自身の発する声も誰にも聞かれない状況である。いわば、誰の目も気にせずに過ごせる状況である。

 

いわゆる、人間関係の希薄化による「孤独化」は進んでいようが、この、文字通り、一人で居ることは相当に難しい。


おそらく都心部の家庭を持った社会人が一人で居られるのは、トイレか寝室くらいしかないだろう。いや、寝室にしても、配偶者を持った多くの場合は一人で居ることは困難だろう。一歩外に出れば、一人で居ることは事実上不可能である、駅の並んだ個室のトイレに入ったところで、薄い板の隣には同志が居るのだから、これはもはや一人で居るといえようか。だからといって、家のトイレで何分過ごせようか。これを、一人で居るといえようか。


典型的な家庭持ちのサラリーマン男性を想起すれば、彼が完全に一人になれるのはある休日、妻と子供が外出している時間だけである。

 

それは一ヶ月の間に何時間あるだろうか。ともすれば、殆ど皆無の人も居るだろう。


かつて過密性は暴力を引き起こすという論があったり、またそれを否定する論があったりと、とにもかくにも、現代社会の過密性はいつの時代も注目に値してきた。

 

過密性は本稿の中心である、一人で居る時間を間違いなく減少させる。

 

エレベーターや繁華街での文字通りの過密性は、それはそれでまた特定の影響をもたらすのであろうが、人口増加と住居密集によるマクロ的な過密も、一つには一人で居る時間の減少を通じて我々に少なからざる影響を及ぼすことは推測できる。


様々な文化・社会的な拘束を受け、様々な行動や言動に制約がかけられている現代社会において、他者に見られている時間は自己アピールの好機であると共に相応のストレスを

受ける時間でもある。

 

一人で居る時間が少ないということは、文字通りリラックスした時間が少ないということに、少なくとも一側面としては帰結するだろう。


一人で居るというのは、太古の時代に於いてはある意味で危険な行為であったことだろう。

 

敵に襲われるリスクも大きくなるし、何をするにしても他者の協力がないということは不安材料ではある。


しかし現代社会に於いて、このような危険は殆どなくなった。

 

それよりも、一人で居るということのメリットが顕在化してきたように見える。

 

誰の目も気にせずに、精神的ストレスから開放された状態は、我々の多くがともすれば渇望しているものに他ならないだろう。一人で居る時間の思索は、他者との協同とはまた異なる発想を生み出すこともある。己を見つめるときに、他者の干渉は有害である。


かつて東京で、駅やら建物やらの個室トイレが常に大繁盛であることに驚いた。

 

人口が多いので当然でもあるが、その中には、少なからず束の間の「一人」を満喫していた現代人の影が浮かぶ。聞けば、トイレで長居をする人も増えているという。もう少し、「一人」を満喫できる別の場所があっていいと思うのだが…。「一人」に希少価値が出るのは、なんだかおかしい気がする。あまりこれを放置していると、過激派としてのひきこもりが増加する憂いがあるのである…。

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シンプルな神

動物たちにとって、神とは何だろうか。


人は様々な宗教を造り(信者にとっては様々な宗教が人を創り)、様々な定義があろうが、仮に進化論的な立場から動物たちにとって神の存在を仮定すれば、それは自然選択の原理に他ならないだろう。(創造論的な立場からはまた違った見解があるだろう、それを語るほどに私は創造論に詳しくないため割愛する)


自然選択とは良く聞くが、昨今の主流である遺伝子レベルでの自然選択を是認するとき、普通の人には様々な疑問が生じるだろう。

 

利己的な遺伝子とはよく聞くが、果たして単なる化学物質の塊のようなものにその様な意思があるのかという初歩的なものから、遺伝子一つ一つでは生体として機能出来ないにも関わらず、遺伝子単体レベルにまで淘汰圧を還元していいのかと言う少しやっかいなものまである。

 

どうしても、淘汰される側に着目するから話がややこしくなるのである。

 

視点を、淘汰する側に移してみればどうだろうか。

 

だがこれが存外難しい。なにしろ、自然淘汰圧など目に見えるものではないからだ。それどころか、言葉で表現するのも実は難しい。

 

淘汰圧をあえて表現すれば、「なくなるものはなくなり、残るものは残る」ということになる。なんだか、余計にややこしくなってしまった。

 

利己的な遺伝子は遺伝子と言う本来意思のないものを擬人化したが故に多くの混乱を招いた。だが、本質的に、我々は性質や原理、摂理と言った、意思や目的意識のない

 

モノの把握には疎い。擬人化は、そういった状況の理解に大きな手助けとなるが、それは誤解を生み得る諸刃の剣でもある。


故に淘汰圧についても、あえて擬人化はしないでおこうと思うのだ。しかし、そうすると、なんともとりとめのない表現になってしまった。


言うまでもなく、自然選択、あるいは自然淘汰は、自然と言うものが意思を持って強きものを選び弱き物を切り捨てていっているのではない。

 

むしろ、強きものが残り、弱きものが消えうせる事実原理に、ある意味で自然という第三者を仮定し擬人化した上で説明しているのに過ぎない。即ち、この自然選択(淘汰)という言葉自体に、擬人化の性質をはらんでいると言える。

 

遺伝子レベルの自然選択に話を戻そう。

 

遺伝子にもちろん意思はないし、利己的な、という言葉はあくまで擬人化された表現のあやであることは、今更言うまでもないだろう。

 

では、遺伝子には意思などなく、ただ己の複製を増殖させる性質があると言うならば、どうだろう。

 

一見、目的意識を排し性質と規定したが故に、ある程度適切な表現にも見えるが、これでもまだ、実は不十分だと思う。

 

これだと、本質的に遺伝子という化学物質の塊は自己複製性があるように捉えられる。

 

正確には、自己を複製するシステムを(偶々)有した遺伝子だけがいわゆる生物の遺伝子として残ったと考えるのが適切であろう。あるいは、そういうものだけを我々が遺伝子と呼ぶともいえる。

 

遺伝子の元となったものには、自己複製性を持たなかったものもあったかもしれない。

 

しかし、それは当然、すぐに消えてなくなる運命にある。我々は、消えてなくなった数多の他のものを見ていない故に遺伝子には本来的に自己複製の性質があるように思ってしまいがちであるが、事実はおそらく、逆であり、我々が見ているサバイバーは少数派だっただろう。


なくなるものはなくなり、残るものは残るという、なんともそっけない原理が、創造神の想定まで駆り立てるほどに、「神がかった」複雑な機構を生み出した。

 

我々が見ている、あるいは見てきたあらゆる生物は驚くほどに生存競争に打ち勝つための様々な特徴を有しているが、その裏にはおそらく、その何倍もの生存競争に不適応な特徴の萌芽があったはずだ。ただ、なるなるものはなくなる、という極めてシンプルな原理の下、その萌芽は我々の目に付くほどに広まる前に消えうせただろう。


進化の現場は常に下手の数撃ちだ。

 

そこには決して生存競争に打ち勝とう、自己の複製を多く作ろうといった「照準」はなく、進化は四方八方に弾を撃ちまくるのみだ。

 

残らない弾は残らないが故に残らないのであり、残る弾だけが残っているが故にあたかもその残り弾のみに本質があるように勘違いをしてしまう。

 

我々は常に見えざる無数の弾に思いを馳せる必要がある。


なくなるものはなくなり、残るものは残るというこの味気ない、しかしこの上なく偉大な原理を全ての前に置き考えれば、淘汰の単位にそれほどこだわる必要があるのかという疑問すら沸いてくる。

 

即ち、遺伝子は一つ一つのレベルに於いて淘汰を受けるのか、いくつかが相関しながらなのか、あるいは今や廃れ気味ではあるが個体レベルなのか、更に大きく種というレベルなのか。


かの偉大な原理の前に立てば、そんなことはどうでもいいのである。とにかく、残るものは残り、なくなるものはなくなるのだ。

幸か不幸か、この地球上は有限の世界だ。

 

限りある資源と領域の上に、全てのものが立てるほどこの世界は広くない。

 

ただ、そこに立つ手段を、かの原理は選ぶことはないだろう。

 

遺伝子単体、あるいはいくらかの遺伝子群レベルでの淘汰を経るものがもっともよく残るならば(そして今のところそのようにも見えるが)、遺伝子淘汰が隆盛するだろうが、これは個体レベル、あるいは種レベルの淘汰の可能性を完全に排除することには決してならないだろう。なんらかのやり方で種や個体レベルでの淘汰を受けながら、よりよく残るものが現れたならば、かの偉大な原理は決してそれを拒むことはないだろう。


あくまで先にありきはかの偉大な原理であって、淘汰圧のレベルがどのレベルかと言う問題の方ではないのだ。

 

故に、少なくとも原理上は、淘汰圧のレベルはどのレベルにもその存在可能性が残されているといってよいだろう。


それにしても、自分自身、なんとも読みにくい、分かりにくい文章になったことである。

 

だから、私自身、他の稿においては、通常行われる程度の擬人化や、遺伝子淘汰説の前提化を行っているし、遥かにその方が書いている側、読んでいる側共にストレスフリーであると感じている。ただあくまで一度、此処に於いて原理原則に立ち返っておきたかったまでである。


それにしても、なくなるものはなくなり、残るものは残る。

 

この至極単純なフレーズが、ここまで複雑性を生むとは、なんと、シンプルな神だろう。

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経験が邪魔になる

以前とある棋士の談話で、「経験があるとかえって邪魔になる」という一節を聞いたことがある。通常、経験性善説が蔓延している一般人の考えでは、経験の蓄積こそが「勘」を生み、豊富な経験に裏打ちされたデータベースから独創的な発想さえも生まれ・・・という、経験礼賛の声が大きい。

 

しかし、逆の言説も実はよく聞かれることで、たとえば専門家集団などでは、特定の業界内にとどまり続けたが故に独自の世界観、観念を形成してしまい、気づけば一般社会とはかなり乖離したものになったりする。あるいは、まったく異なる業種からの新規参入者が、その業種に長年居座り続けている者達には想像もつかないような(無謀とも思える)斬新な発想で、成功したりする。


だがここで考えたいのは、それよりも更に少し急進的なものであり、即ち、物事の上達に経験が必ずしも寄与するとは限らないということである。


さすがに、何か、スポーツでも学問でも藝術でもいいのだが、あるものにおいて上級者になろうとする、あるいは達人と呼ばれる域に達しようとするならば、多くの人はそのものを練習し続け、経験を積んでいくことに実りがあるものと信じて疑わないだろう。


もちろん、天賦の才がある程度存在することは承知したうえで、それでも、練習、経験を積み重ね、その先に上達というものがあることを疑うものはいないだろう。


しかし、実は経験を積めばつむほど上達から離れていく可能性があるとすればどうだろうか。


よく、間違った癖を積むといくら練習、経験を積んでもそれが逆効果になることは言われる。本人は一生懸命練習しているはずが、実は悪癖の形成に汗を流しているだけで、傍から見れば哀れな人、というケース。こうなると、もはやずぶの素人のほうがプレーンで真っ白であるから、よい練習を積めばすぐにこういったpoor man を追い越せる可能性はある。


しかし更に論を進め、よい練習を積んでいくことすらも、上達から離れていくとすればどうだろう。いや、厳密に言えば、上達はするのだが、いつまでたってもトップにはなれないという状態。


理論はこうである。一般に、よい練習といわれているものは多くの人々の間に既に知られているものである。他人と同じように、同じだけ練習していても、結果として練習で差はつかない。すると、わずかな天賦の差が序列をつける結果になるだろう。練習者は、「これでもか」というほどに自分は一生懸命練習、経験を積んでいると自負するが、たいていの場合となりの練習者も同じことを考えている。結局、1日に人間に与えられている時間は等しく、なかなか練習の量で差をつけることは難しい。


更に言えば、似たような練習を延々と続けたからといって、単純な1次方程式の如く結果は正比例するとは限らない。どこかで飽和点を見る可能性も十分にある。


では、練習、経験を独自のものとして、質の差異化を進めればいいのだろうという話になってくる。これは、一方では当たっているし、一方では不十分な面もある。


確かに、練習、経験の質を独自にし、他人の真似できない経験を積めば、すばらしい上達が待っている「可能性」はある。ただし、これはいわば博打に近く、独自の経験は、悪癖への登竜門の可能性もある。


さらに、多くの方には受け入れがたいだろうが、そもそも、経験を積めば上達するという、その単純な方程式自体を疑う必要があるのではないかということである。


少し先述したが、経験と上達は無限に正比例しているとは限らない。一定のラインまで経験があれば、あとは飽和点に行き着く可能性もある。

 

そして、飽和点に行き着いているにもかかわらず、経験にこだわり続けることは、新しい視点を逃す結果に繋がることもあるということだ。

 

上達には、経験、練習の積み重ねの上に、更に「ひらめき」という起爆剤が必要ではないかということである。


「ひらめき」の発生には、経験が寄与することはもちろんあるが、同時に、経験が邪魔をすることも多い。それは、冒頭第二段落で延べたとおりである。

 

必要以上の経験は、経験への固執、過信を生み、トップへ上り詰めるための必要条件である「ひらめき」の発生を妨害することがあるのではないだろうか。


これはなにも、むやみに慣習やよき練習法を否定するものではない。


こういう論をすると必ず誤解して、「常に新しい視点が必要、固定概念をすてろ」などと騒ぐ人がいるが、長い時間を経て自然淘汰された慣習や固定概念は、大方のケースに於いてかなり役に立つ、優等生の知識の集積であるから、これを馬鹿にすることはあってはいけない。


ただ、これら古きよきものは、必要最低限の経験取得時にベースとなり活躍してくれるものであるが、そこから更に極みを狙うときには、これだけに頼っていてはいけないということである。


即ち、70点や80点をとるだけならば、一般的な手法である、古きよき慣習、練習法に従い、十分な経験、練習を積めばよいものと考える。しかし、95や100を狙うとき、それだけでは不十分である。

 

そこで、「ひらめき」がその壁を破るためにどうしても必要なのである。


まとめると、経験、練習の蓄積は、もちろん基礎を固め70,80点をまずとるのに必要である。しかし、一定程度まで蓄積されたら、それからはそれに固執するのではなく、むしろそこから離れながら、極みへの壁を越えるための起爆剤となる「ひらめき」発生への準備を進めるべきだということである。


そして、その蓄積の一定程度のラインは、実は我々が考えているより、もっと低いところにある場合もあるのではないか、と個人的には思っている。

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意識が作り出す

比較的旧来からある議論として、モノはモノとして最初からありきなのか、それとも我々の主観がモノをモノとして作り上げているのかという話がある。哲学では重要なテーマにもなっているらしい。


水槽の中の脳という仮想があるように、原理上は、我々が知覚する全てのモノは脳に適切な電気信号さえ送ることが出来れば、実体なくそれを知覚させることは出来る。もしかしたら、この世など存在せず、全ては水槽に浮かべられた我々の脳の幻想である可能性も無きにしも非ず、ということである。


少し話が飛んで大袈裟になったが、もっとミクロな部分でも、我々の意識は確かに、本当ならばないかもしれないモノを作り上げているケースがある。


肩こりというものがある。これは日本独特のものらしい。そう言うと、まるで日本人のみに肩こりという症状が存在するのか、やはり日本人はなで肩で肩が弱いのか、などと勘ぐる人も居るだろうが、むしろ事実はそれとは異なる。


勿論、異国の人々も首や肩の緊張感を感じたり、違和感を覚えたりすることはある。しかし、それを一つの症状として、特定するネーミングを持たないのである。表現する言葉がないと、人は不思議なもので、それはそのモノをさして知覚しないようになる。あるいは、さして知覚しないからネーミングがなされないということもいえるのであるが、とにかく、言葉によるネーミングと、それに伴う意識が、そのモノの存在感を高める、いや、もっと言えば、そのモノの存在に係る必要条件を握っている側面があるのである。


肩こりに話を戻すと、文化的に、異国ではその、肩や首の緊張感や違和感を覚えることがあっても、それに相当するネームがない故に、大した事として捉えられていないか、あるいは、大した事と捉えられていないから、ネーミングがなされないでいるということである。実際には両方の相乗効果があるのだと思う。


似たような例として、フランスの重い足というものがある。足が重くだるいという症状は確かに我々も経験することはあるが、日常会話で頻繁に口にするほどそれを意識もしないし、肩こりのように端的にそれを表す言葉もない。そして、それを治療する市販薬も、決してメジャーではない。


しかしフランスでは、この重だるい足の症状を重い足と呼び、さながら日本の肩こりのように国民が認知しているという。だから、彼らは重い足により敏感になり、重い足についての話題も多く、それを治療する薬もあるという。


更に話を進めよう。いわゆる西欧医学が発達していないような国では、それが発達しているような国では精神病と認定されるような患者も、その国の人々はまずもってそのような概念がないが故に、彼或いは彼女を決して特別扱いすることはないという。それが偏見に繋がる場合ももちろんあろうが、一方で、彼或いは彼女になんらの先入観なく施しをする等し、結果的に彼或いは彼女がその国に於いてはよく適応できるケースがあるという。身体的な損傷等が見られない精神病は特にそうであるが、一部の身体的疾患であっても、それを疾患と見なさない文化の国に於いては、その患者はもはや患者ではなく、その疾患はもはや疾患ではないのである。


よく、言葉なしに我々は思考することすら不可能であるという言説を聞く。ある現状があり、あるモノがある前で、それらに名前をつけ、言語化することで初めてそれが意識され、思考の対象となる。原始的な苦楽の感情はともかく、ある程度複雑な思考は、確かに言語化による意識が必要不可欠ではないかと思う。我々は、名づけることによって始めて、そのモノを意識化し、我々の知覚上に、そのモノが「存在」し始めるのである。


言葉によるネーミングは、あるモノへの意識を喚起させる非常に大きなツールであるし、逆にモノへの意識が強まったときに、言葉によるネーミングが要請されるとも言えるのであるが、肝要なのは、必ずしもネーミングそのものではなく、意識の強化ということがそのモノを作り上げるということである。言葉は多くの場合関与するが、しない場合ももちろんある。


病は気からと言う言葉があるが、これは、患った病への意識の強化が、よりその病の存在感を助長し、悪化(少なくとも主観的には)をもたらしうると言うことであり、その逆も然りということである。逆に、仮にではあるが、悪性の疾患の患者に対し、良性であるとの虚偽の説明をし、患者が十分に納得した場合、少なくとも主観的な症状は軽快に向かう可能性が少なからずある。無論、これは器質的よりも機能的疾患において当てはめられるべきものであるが。プラセボ効果なども類似の原理によるものである。


医学的な例が続いたが、このような意識化がモノを作り出すということは、あらゆる場面で見られる。たとえば西洋では文化的概念として悪魔が存在し、その風貌から人の美的感覚についても、立ち耳や八重歯は非常に嫌われるという。

 

しかし日本ではこれらを気にする人は少ないであろうし、まず、たとえば立ち耳に関して言えば、耳の形などよほどでない限り気にしたこともないという人も多いであろう。即ち、意識されないが故に、美的ファクターから耳というものはその存在を殆ど消しているのだ。


マイナスイオンなどというモノも、そうである。

 

確かに昔から、我々は森林や滝つぼの近くで感じる、独特な匂い、雰囲気、質感を知覚してはいたし、それに対し好感を覚えていただろう。しかし、その漠然としたモノに、マイナスイオンなどという、なんともよく分からないが比較的覚えやすい単語の組み合わせからなるワードが充てられたことで、あの、独特の空気への意識化は格段に向上した。

 

実際マイナスイオンとは何のマイナスイオンなのか、OHなのか、はたまたClなのかは知らないし、誰もそのことを気にとめてもいないように思える。そして事実、そんなことはどうでもいいのである。マイナスイオンという言葉により、あの今までなんとも表現できずにいたあの何かを、より容易に表現できるようになったことで、我々のあの何かへの意識、知覚は強化され、あの何かは格段に存在感を増したのである。


そして、あの何かはこの名前による意識化を武器に、今まで対してその存在感を発揮してこなかったような、公園の噴水や、小さな小川、あるいは、スチーム機においてですら、その存在を主張し始めている。明らかに、あの何かは、モノとしての力を強めていったのである。


逆を言えば、あるモノから名前を取り、意識しなければ、そのモノは消えていくということになろう。しかし、現実にはこのプロセスは不可逆性が強く、一度成立したモノが、再びなりを潜めることは、難しいようである。

 

もちろん、かつて存在していた言葉、それに伴うモノが、時代の変化と共に消えうせていくことは、無いことはない。しかし、多くの場合それは、モノそのものがなくなったが故に追従しての言葉の消滅であり、決して言葉の消滅がモノの消滅を誘導した例は多くないと思う。


モノを創ることは比較的容易なようだが、無くすことは難しいようで、これはいつか聞いた、「あったことをなかったことにすることは、かの(創造)神ですら出来ない」という、赦しの困難性の言説を思い出させるのである…。

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限られた、匂い

視覚情報化社会といわれて久しい。同時に、音響機器も発展を遂げ、携帯音楽機器や携帯電話等の発展を見れば、聴覚情報化も相当に進んでいるといって差し支えなかろう。

 

では、残りは、どうだろうか。


人の五感のうち、多くの人が其の喪失を恐れるのは視覚、聴覚であろう。残された存在として味覚、触覚、そして嗅覚が挙げられる。

 

味覚はいささか特殊な感覚である。本来的には食物の化学的な性質検査の役割を担っていたであろう此の感覚は、根本的に其の発動時期が限られている。即ち、摂食時のみである。


触覚、これもまたある意味で特殊なものである。その他4つの感覚器は非常に限られた範囲に存在しているが、触覚に関しては殆ど全身が感覚器である。あまりにも根本的であるが故に、さしたる着目を受けにくい側面もあろう。情報を得る感覚としてみれば、この触覚は至極至近距離のもののみにしか適用されないという意味で、限定的な側面もある。そういう意味では、味覚も同じであり、この両者は、情報探知機としては近距離型と言える。


そして、嗅覚である。この感覚は非常に面白いものである。

 

視覚や聴覚と同様に、嗅覚は遠方の情報も伝達できる。発動時期も止むことなくエンドレスである。生存上は化学物質の探知を主目的としており、そういう意味では味覚と相互補助関係にある。(事実、嗅覚の損傷は味覚の損傷に繋がる。)なかなか、重要な役割を担っているのである。


しかし現代人は、嗅覚に頼って何かするということは殆どない。

 

異臭の探知も、現代社会に於いては高度な警報機が代行してくれるだろうし、排気ガスくさい此の社会ではむしろ迷惑な存在とすら感じる人もいるかもしれない。

 

一部にアロマセラピーなど嗅覚重視の動きもあるが、決してメジャーであるとは言いがたい。


ところが、この非常に役割が縮小化されて限られていった嗅覚が、思いがけずに力を発揮することがある。それは、ふとした馴染みの地に触れた際の、いわば郷愁のスイッチの役割を果たすのである。


長らく離れていた場所を訪れた際、しばしば目にする景色は様変わりし、町に流れる喧騒のリズムも変貌している。しかし、なんとも表現が難しい(匂いほど表現の難しい感覚を私は知らない)匂いは、確かにその土地に染み付いていて、それはしばしば懐かしのそれとなんら変わっていないのである。


あの、土地特有の匂いは何なのだろう。その地の植物の匂い、川面の匂い、あるいは工場の匂い、地に住む人の生活の匂い、様々な要素が混ざり合って独特の匂いを形成しているのだろう。それは普段、離れているときには思い出そうとしても思い出せない(匂いとは想起が非常に難しいと思う)、しかし一度嗅げばすぐさま「ああ、此の匂い」と合点する匂い。この力は、いささか強力すぎて、時に視覚や聴覚などの情報手段など忘れ去られるほどにあらゆるその地での想い出を引っ張り出してくれる。


これは、人にも当てはめることが出来よう。論を待たずして、人にはそれぞれ固有の匂いがある。体臭というとあまりに品がないし、マイナスイメージが先行するのでここでは敢えて使わない。ここでいう人に匂いとは、決して不快なものではなく、その人を想起させる、よきトリガーとしてのものである。


久しぶりに会う友に、昔と変わらぬ匂いを以ってしてその懐かしみを大きくした人も多かろう。ここでも、人は経年によりあらゆる変化を遂げるが、匂いだけは、かつてのそれであることが多いような気がする。もっとも、その人に伴侶が出来た暁などは、いささか匂いも新調されるのかもしれないが。


動物の世界でもマーキングなどは匂いを通して行われる。各人に固有の匂いがあり、そのそれぞれに懐かしみを覚えるのは、ある意味自然なものなのかもしれない。いくら仮装して、変声を遂げたところで、匂いを隠すのは案外難しい。匂いは、その信頼性からも、あらゆる過去の同定に使われるのかもしれない。


匂いは確かに得られる情報量は限られているし、その射程範囲も限定的である。しかし、限られているが故に、よりいっそうの力を発揮する場面があるようだ。視覚や聴覚は、我々が普段よく使用し、いわば使い慣れた道具である。そんな中で、珍しく嗅覚が懐かしの匂いを伝達したとき、人は、より大きく心を揺さぶられるのかもしれない。


限られたが故の、希少性の持つチカラであろうか。

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現代と古

よく聞かれる話として、現代の人間は熾烈な生存競争からは縁遠くなったというものがある。経済的格差などは以前存在しつつも、我々は猛獣に襲われる危険を感じることはともすれば一生ないこともあろうし、感染症に罹ったところで容易に逝くことはなくなった。

 

平均寿命は飛躍的に延び、それに伴いさまざまな社会問題は発生しているものの、こと、サバイバルとしての命の保持だけに着眼した場合、原始時代から文明社会への遷移はまさに地獄から天国とも言うべきものであったことだろう。

 

同時によく聞かれる話として、現代は精神的弱肉強食時代であるというものがある。

 

確かに肉体的には、現代は原始時代に比して格段に「楽な」世界となった。

 

しかし、精神的には、複雑に入り組んだ人間関係、原始時代とは比べ物にならないほどの数の相手との交際、折衝などにより、精神的ストレスは格段に増大したという論説である。

 

かつてジャン・ジャック・ルソーは、自らの著書の中に、原始生活を送っているものの中で自殺をしたものを知らない、それに比べて現代は・・・という嘆きを、既に記している。

 

農耕の発展による人口増大とともに始まる文明の台頭は、人間の社会化という人類史上未踏の領域へと我々が足を踏み入れるきっかけとなった。

それは、かつて小集団による独立的な生活を営んでいたと見られる我々の先祖からしてみれば、ある意味無謀な挑戦であったのかもしれない。

 

肉体的には天国であるという論と、精神的には地獄であるという論は、それぞれ説得性を有しているように見えるが、果たして本当にそうなのだろうか。

 

 

 

そもそも、かつての我々、あるいは、他の野生生物と、現代人では、生存競争ひとつとってみても、その捉え方が大きく異なるであろう事に留意したい。


先に私は、現代人の捉え方として、現代を肉体的には楽だが、精神的には苦痛であるというものを取り上げた。これを少し掘り下げて詳述すれば、現代は、自身の延命には適し、日々受ける精神的苦痛の観点で言えば地獄であるということだ。

 

比して、かつての原始時代では、自身の延命には不利であり、日々の精神的苦痛はより緩和なものであったということである。

そして、自身の延命を、肉体的な生存競争における勝利、成功と近似に捉えている。

 

一方で、かつての我々や野生生物は、自らの置かれた環境をこのように肉体・精神の2局面から2分していたかどうかは怪しい。彼らの最終目標は、(進化)生物学的な論点に立ちながらお決まりの擬人化を用いれば、自己遺伝子の複製をできるだけ多く、できるだけ長く存在させることに他ならないことは、明白であろう。

 

であるとすれば、ある人がたとえ100歳まで生きたところで、一人も子供を作らなければ、この観点で言えばこの人の人生は失敗であったということになる。


我々の先祖が、他の野生生物と同様、悪戦苦闘していた肉体的な生存競争も、その最終目標は自身が単に長生きすることではなかったはずだ。もちろん、長生きすれば子作りの機会が増えるという意味で、間接的に長生きは最終目標に貢献するが、あくまでその最終目標とは、自身の子供を一人でも多く作ることであったはずだ。


我々が肉体的な生存競争と聞くと、自身の身の危険を守ることを第一義的に考えがちだが、(進化)生物学的に言えば、単に自身の身を守るだけでは生存競争に打ち勝ったとはいえない。自身の健康な体を以ってして、多くの子供を作ってこそ、はじめて目標を達したといえるのである。


彼らのシンプルな最終目標を鑑みれば、そこに肉体と精神の区分など存在しないことになる。もちろん、肉体的に不健康な状態で多くの子孫は望めないだろう。一方で、極端なストレス状態に於いても同様のことが予想される。

 

故に、彼らの「生存競争」には、肉体も精神も全て包含された上での、子孫繁栄という最終目標があるだけの、極めてシンプルなものであるといえる。


それが、現代では、できるだけ多くの子供を・・・という、本来生得的であるはずの観念が抜けがちな人間が多いため、肉体的な生存競争と聞くと、ついつい単純に自身の身を守ることだけに目がいきがちである。20代で5人の子を産み夭折した人と、100まで生きながら子供に恵まれなかった人、2人を比してどちらが「肉体的に」「成功」したかと問われれば、原始人は前者、現代人は後者を選ぶといった分岐が生まれる可能性は十分にある。


なぜ生物のcommon senseといえる最終目標が抜け落ちがちなのかはまた別の話として、異端となった現代の我々は、もはやかつての我々と、あるいは他の野生生物とパラダイムそのものが根本的に異なってしまっているといえる。


もちろん多くの場合一定の子孫は残すがその最大化を必ずしも欲しない現代人にとって、その関心事は自身の健康な延命と日々の精神的安定という2大柱となった。

 

比して子孫の最大化を唯一の最終目標としっかり植えつけられたかつての我々及び野生生物は、自身の延命そのものや日々の苦痛を、あくまでその最終目標への間接的なファクターとしてしか捉えないだろう。


かつてと目標が異なる中で、かつてと現代の比較はもはや正確性に疑問符が付くものとなる。ある現代人が肉体的には苦痛が多く精神的には楽が多いと見なす古の時代にタイムスリップしたとして、其の思考回路が現代人のままなのかそれすらも古のものに回帰するのかによって、全く感じ方は変わってくるだろう。逆に古の先祖が現代にやってきたとしても、同じことが言える。


現代人からしてみれば地獄のような、平均寿命は短く老成期には多大なストレスを受ける環境でも、それが繁殖期まで安全で多くの子孫を作ることができる環境であれば、古の先祖たちには天国のように映ったかもしれない。逆に現代人は現代を肉体的には「楽な」時代だとみなしがちであるが、自身の延命そのものが最終目標ではない古の先祖たちはそこに価値を見出すことは難しいかもしれない。


精神的ストレスというのも、大きくパラダイムが異なる以上、その定義そのものが古と現代では大きく乖離している可能性が高い。となると、もはや純粋な比較などできず、結局冒頭のような我々がしがちな推測は妄想でしかないということになる。


現代がどういう時代なのか、その定義は現代の我々のみがすればいいし、結局、我々にしかできない。古の時代もまた、同じである。

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異形の美

美とは、何だろうか。

 

ある人曰く、美とは性選択における基準であるという。

 

なるほど、いわゆる美人というのは、其の顔、体つきについて相当程度左右対称、各パーツは適度な大きさで均整が取れており、いわゆる疾患などにより「崩れた」顔立ち、体つきとは対極をなす。まさに優良な遺伝子の体現といえる。

 

しかし、いわゆる芸術における美では、この性選択基準はあまり通用しない。

 

性選択基準は、いわばモノの平均付近をとったものが美ということになる。

 

身長一つにしても、あまりに高い身長や低い身長は好まれない。

顔立ちにしても、大きすぎる、あるいは小さすぎるパーツは敬遠される傾向にある。

 

もちろん、文化、時代により色々なバリエーションはあるが、一般的には、この性選択基準で言えば、極端なものは危険の象徴、即ち、疾患などの危険性ありという目印になろう。故に、平均付近に美が現れる。

 

しかしながら、芸術における美はもっと多様で、極端な大小、左右非対称、普通では有り得ない色や形など、むしろ平均からずれる方向に美を認めるケースが多々ある。

 

極端なものへの指向は、少し進化生物学に詳しい人ならばランナウェイ説を引き合いに出して性選択の範疇に収めようとするだろう。即ち、象徴化された何らかの特長に於いては、其の特徴が顕著であるほど良しと見なす性選択の方法で、たとえば、孔雀の羽などがよく引き合いに出される。

 

しかし、一般にそのような性選択の方法をとる場合、基準は単一であることが殆どだ。

 

たとえば、孔雀の雌は雄の羽の大きさ、立派さには敏感に反応するが、ヘラジカの雄の角の大きさには見向きもしないだろう。コブダイのコブにも、ムンクイトマキエイの着水音にも、鈴虫の音色にもなんら関心はないだろう。彼女たちにとって、美とは雄の羽の大きさ、立派さのみにあり、それ以外のものに美意識が発動されることは、近似なものへの誤作動こそあれど、そう多くは無いだろう。

 

一方で、人間の感じる美は、対象からその基準までさまざまである。

 

これだけ幅広いと、もはや性選択の基準としてはあまり役に立たないものだろう。

 

なにしろ、基準というのは、単一化されていればいるほど見分けが付きやすいし、数多の煩雑な基準は混乱を招くだけであるからだ。そもそも、我々は身体的特徴に対しては、平均付近を美と感じる戦略を有しているのであれば、芸術分野における極端なものへの指向はこの性選択的基準に明らかに反する。それでも、我々が孔雀のように極端なものを指向するのに特化した特長を身体的に有しているならば話は分かるが、そのようなものを私は知らないし、万が一そのようなものがあったとして、平均付近を美と感じる感覚には相反する。

 

中には、現代の学問(知)、文学、音楽、スポーツなどあらゆる文化活動を、性選択の結果生じたものだとする論もあるようだが、いくら知能が高いヒトと言う種であれ、そこまで多様な性選択の基準を有する必要があるだろうか。

 

あらゆる文化活動を性選択の基準にしてしまえば、どんなオスも、いや、男もなんらかの分野で抜きん出て、メス、いや、女に選ばれてしまう。これでは、選択基準として機能しない。

 

あるいは、女のほうも、数多ある基準を全て覚え、基準同士の関係をどう捉えるかで苦労するだろう。それよりも、たとえば、足の速い男ほど強さの象徴でありよしとする、といった、孔雀の羽に相当する単一基準を構築したほうがはるかに早い。

 

そしてそもそも、我々は身体・顔つきに関して言えば、平均付近を取る基準を有している。性選択には、この単一基準で十分ではないだろうか。

 

それでもあらゆる文化活動を性選択と結び付けたい人たちには、高度に社会・文化が発展した環境に於いて、身体的特徴だけの単一基準では判断が不十分になり、さまざまな基準が出没したと考えるかもしれない。

 

そして、基準が多くなりすぎ、更に性選択の本来の目的である相手を選ぶということのみならずモノや風景、事象にすらその基準たちが適用されている現状は、単なる誤作動、

副作用の類であると捉えられるかもしれない。


しかし、それにしても人間の美はあまりにも多種多様である。

 

閑話休題、ここからは、ひとまず人間の美の多様性の一部を見ていくことにしよう。

 

一、平均の美

 

これは性選択とも結び付けられやすい、平均付近の顔立ちを美とする意識に代表される。

 他にも、一定の基準に沿っているという意味での平均として、楷書の文字に対する美意識などがあげられよう。


二、大きさ、あるいは小ささの美

 

たとえば巨大建造物、あるいはミニチュアハウスのように、そのものの極端な大きさに感嘆し、転じて美を感じるケースがある。

 それらが普通のスケールであればさして印象に残らないものでも、スケールが極端であるとそれだけで美を発動させることがある。

 

三、珍しい色の美

 

見たことも無いような色使いの商品や、突然変異で生まれた色違いの生物に美を感じることがある。たとえば、ホワイトタイガー。同じ白黒でもそれがシマウマに於いてはなんら特別な美を生み出さない。

 

四、特定の音波の美

 

音楽、虫の音、川のせせらぎ・・・さまざまな音波に我々は美を感じるが、その法則性を見出すのは極めて難しい。もっとも、可聴周波数において極端に端の周波数は嫌われたり、ある種の倍音が好まれたりなどといったレベルの法則はある。これには雷鳴や獣の威嚇音など、進化戦略的に不快と感じる機構が備わっていると考えられるケースもある。

一方で、川の音や野鳥のさえずりなど、本来人間の生活にプラスにもマイナスにもならない音に魅力を感じる理由は、この進化戦略説では容易には説明が付かない。

 

五、懐古の美

 

たとえば昭和の風景など、当時の人にとってはなんでもなかったものが後世にはノスタルジーを含んだ美として評価されることがある。ともすれば川の音や野鳥のさえずり、あるいは自然の風景に美を感じるのも同じ機構によるともいえる。

 

六、異なりの美

 

異国情緒という言葉があるが、我々は懐古と同時に、見たこともないような風景にも美を覚える。もっとも、其処に住んでいる人にとっては取るに足らない風景であってもだ。

 

七、定型の美

 

音楽における各種法則、韻、俳句、短歌の型など、ある種の定型に美を見出すことがある。或いは、庭園における石の配置などに於いても、一定のルールがあり、美の典型とされる。


八、人工の美

 

自然界には稀有な対称性、整然性に美を感じるのは、西欧文化で顕著であるが、それに限らず比較的普遍性を持っているだろう。たとえば、整理された部屋の美など。

 

九、混沌の美

 

上記人工の美とは逆に、複雑怪奇な混沌、カオスな状態、或いは自然のままの状態に美を感じることもある。これは懐古の美とも絡み合っているのかもしれない。

 

十、異なる視点の美

 

同じものを見ていても、ある別の角度から見る、とりわけ、普通ではないような見方をするとそこに美を感じることがある。マクロ写真、などを参考にされたい。


本当はもっと色々あるのだろうが、ここまでにおいても、賢明な諸兄の中には既にお気づきかもしれない。これらの美には全て共通する性質がある。それは即ち、希少性である。

 

以下、希少性と一見相反する上記項目について取り上げてみたい。

 

まず、一、即ち平均の美、平均と書くとありふれたというイメージを持ちがちであるが、ご存知のようにこれは主に人間の身体、顔に対して発動される美である。

人間の身体、顔において、あらゆるパーツが平均的である人というのは、これもご存知のように稀有である。故に、美人とは稀有な平均顔の持ち主であり、平均の美はやはり希少性に基づいている。


二、三は取り立てての解説は不要だろう。文字通り希少性がベースとなっている。


四については、五に組み込まれる自然の音がいくらかあるが、その中でも、季節性のある虫の音などは希少性を見出すことが出来る。更に、いわゆる音楽のメロディは、自然界には存在しにくい複雑なもので、希少性を有しているといえる。


五については、かつてはありふれていたものの現在はないがゆえの「懐古」であるため、もちろん希少性を見出せる。


六、八、十は他とは異なるという点でやはり希少性を基にしている。


七、定型の美であるが、これについては希少性の定型化と考えるとよいだろう。

 

即ち、たとえば韻を踏むということについていえば、種種雑多な叙述に於いて韻が踏まれることは元来希少性の象徴的存在であったことだろう。そこに大きな美を感じた者達が、この希少なる韻というものを定型化していったと考えられる。もっとも、全てが全て韻を踏めてしまえば、おそらく韻に現在ほどの権威はなくなっていたことだろう。しかし幸いなことに、叙述の言葉の数、及びその組み合わせは制限があるため、無尽蔵に韻を踏むことはいつの時代も極めて困難であり、そのことがかえって韻の希少性を保ち続けてきたといえる。それは、俳句や短歌の型にも言えることだ。

 

九については、先にも書いたが懐古の美に一定含まれるものだろう。あるいは、人工化された現代に於いて逆に非対称性、混沌性が希少性を持っているという見方ももちろん出来る。


おそらく、ありふれたものに美を感じることは少なく、いわゆる美しいものには希少性が伴うことに異論を唱える方は少ないだろう。だが、もちろん、希少性は美にとって必要条件ではあっても、十分条件ではない。このことが、美と希少性の関係を見えにくくしている一つの要因ではないだろうか。美とは、希少性、他とは、異なるということ…。

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美を競う

美を競うことは、果たしてできるのだろうか。

 

絵画や写真で、どれが優秀賞だの、どれが凡作だの、ランク付けされることがある。

私が信じるところによれば、芸術とは主観であり、競技的側面の本来的に欠けるものだということは多くの方の賛同を頂けると確信する。

しかしながら、マジョリティの主観さえつかめば、案外、芸術にも「攻略法」があり、無理やりながらではあるが競技を創造することも可能であるのではないかと考えている。

 

たとえば人間の顔にも黄金比や一定の法則により、いわゆる美人顔を想定することは容易い。

そこには、生物学的、あるいは進化心理学的な美の指向性が多くの人間には備わっているからで、ここを攻略すればある程度の美を規定することができる。

 

ただ、ここで一つの壁にぶち当たるのは、こういった生物学、あるいは、心理学的な側面からの美への攻略は、「美」と「駄作」を分別することはできても、「美」の中でのランク付けをすることまではなかなかできないということである。

 

人間の顔で話を進めると、いわゆる美人にも数パターンあって、東洋的な美人、インド・ヨーロッパ系の美人、黒人系の美人など、大まかに分けても人種的にカテゴライズできるし、同じ日本人でも、「カワイイ」系や「カッコイイ」ハンサムウーマンなど、これまたいくつものパターンがあるのである。

 

例えば俗な言い方をすれば綾瀬はるかも長澤まさみも美人の類だと認める人は相当数いるだろう、しかし、両者とも自分の好みだと言う人はかなり減るのではないか。即ち、「美」ではあるが、「好みの」美ではないという「美」が、存在することが「美」のランク付けを困難にしている。

 

話を芸術に戻そう。

絵画や写真も同じことで、「確かに綺麗な絵ではあるが・・・」という、「好みではない美人」の類が必ず存在する。これの排除ができれば、芸術のランク付けは格段にやりやすくなる。しかし、これは相当困難を極める。美という上位層の中でのランク付け、トップの決定論は想像以上に難解だ。

 

攻略の方法は2つに絞られる。

ひとつは、極めて最大公約数的なモノを目指し、できるだけ多くの人に受け入れられる「国民的女優」的な方向性をとること。

芸術、美の分野において、もし勝敗を決める基準があるとすればそれは支持者の数であろうから、この方向性は正攻法である。

 

一方で、こういった最大公約数的なモノは突出した特徴にかけるため、熱狂的支持者を作りにくいという難点がある。

さらに言えば、とみに芸術の分野では、「他者と違う」ことが一種のステータス的効果を生むことがあり、あまりに人気が普及するとコアな支持者が逃げていくとう現象がみられる。

 

これについては、いろいろな考え方ができると思うが、美への指向性を、自然淘汰的ではなく、性選択的と考えると少し理解の道が開けるのではないかと考える。

 

即ち、美への指向とは、やはり性選択がベースとなっており、性選択は、平均点以下を切り捨てる自然淘汰とは異なり、トップ層から摘み取っていくシステムが基本であるからだ。(これについては正統的な進化生物学に通じる人からは批判を受けるかもしれない。)

 

美を選ぶとき、あくまでトップを探そうとするが故、万人に知れ渡り平凡化した「国民的女優」は、トップに相当する魅力を減じるのかもしれない。

 

もちろん、逆の発想で、万人の好みに合い、万人との競争に勝たなければ手に入れられない「国民的女優」を追及することは非効率的であり、防衛反応として魅力を感じにくくなるという考え方もできる。

 

何はともあれ、「国民的女優」作戦は、ともすれば上位層ながらもその中の平均点どまりの結果を作りかねないというポイントがあるということだ。

 

一方、万人への訴求はあきらめ、一定の特徴を保つことにより一定のグループへの熱烈な訴求を目指す方向性もあろう。

一部のインディーズバンドが熱烈なファンを持つように、万人受けこそしないが、必要十分な数の支持者、しかも熱烈なそれを得ることを目指すならば、平凡化しないような特徴を持ち続けることだ。

 

ただし、あまり特殊な特徴に走り過ぎると、今度は必要充分な支持者の数を集められなくなる。また、そもそも「美」の基準から外れて「駄作」に転落する可能性もある。

 

この作戦で行く場合、最低限の「美」の基準は守りつつ、「遊び」を入れることで平均化された「美」とは一線を画することだ。

 

しかし、これら最大公約数セオリーもコアファン確立セオリーも、根本的な問題を解決しているわけではない。即ち、これら攻略法で上位群に入ることはできても、ナンバーワンになることを保証することはいずれの手法でも不可能である。

 

ところで、美を競うとき、その勝利とは、できるだけ多くの人ができるだけ熱心なファンになる、ということだろう。

 

そして、前回にも書いたが、美とされるにはある程度万人に共通な美感覚に通じている必要がある。独りよがりの美的感覚は、ただの駄作にしか帰結しないのである。

 

つまり、最大公約数セオリーでもおなじみだが、美を競うとき、できるだけ万人に共通の美感覚に訴える作品をつくる必要があるのだ。

 

しかし、ここでひとつのパラドックスが生じる。

 

万人に理解され、万人にとって美しいとされる美を作る時、その美を万人が作り出す可能性があるということだ。

 

分かりにくいだろうか?

 

絵画を例にとろう。

 

夕焼けの絵は誰もが美しいと感じるだろう。いわば、万人に理解される美である。そして、万人がそれを知っている。

 

だから、万人に、「絵描きとして、きれいな風景画を描いてください」と言えば、結構な確率で夕焼けの絵を描くことだろう。

 

他にも、花畑、清流、海、などなど、万人が認める美的風景は大体決まっている。そして、万人が認めないと美ではないが故、美を作る時、どうしても万人が認めるこれら美的風景が選ばれる。

 

もしも万人が同等の絵の技術を持っていたら、それでは万人が良い絵描きとなってしまう。

 

そんなことはない、技術が同等はありえない、だから万人が良い絵描きにはなれない、と言われそうだが、正直な話、技術という点で上手い者は実際腐るほどいる。写実なら、アマでもすごいのは山ほどいるし、音楽の世界でも、歌唱力だけでいえばプロ以上の者はライブハウスでも行けば腐るほどいる。(プロなのにひどい者が多いのも事実だが)

 

それでもプロとアマの差があるのは、何なのか?

 

それは・・・

 

「夕焼け、花畑、清流、海・・・しかし、良く見れば都会のビル群も見方によっては綺麗じゃないか!これを描こう!」

 

こういう発想力でしかないのではないか?

 

例として着眼の発想を挙げたが、これは構図や色や視点などでも勿論構わない。

 

しかし、これは実に危うい、綱渡り的な差である。

なぜなら、ビル群だって見ようによっては綺麗であるということは万人もまた気づきにくいだけで知っているのであり(逆に知って、言いかえれば認知されていなければ、そもそもビル群の絵が駄作とみなされるだろう)、いつ気づいてもおかしくないからだ。

 

しかし芸術家は、この綱渡りをせざるを得ない。

 

「そうだ、この泥土も綺麗じゃないか!」といくら叫んだところで、万人が認めない以上それはただの戯言だからだ。

 

芸術家が芸術家であるためには、技術がうまいのはもちろんのこと、常に万人に知られているのだけれど、しかし気づきにくい「美」を、いつも探し続けなければならないのである。その「美」は、万人が知るが故にいつ他人が発掘してもおかしくない。でもその前になんとしてでも自分が発掘する、芸術家は、実は永遠のレーサーなのだ。


そしてその危うい競争の上に、微妙な偶然と必然が重なり、トップが決まっている。

 

トップを決めるセオリーは、おそらくないだろうし、少なくとも、私は知らない。

ただ一つ言えることは、トップになれば、芸術家は美の「創造者」にもなれるということだ。自身の豊かな賞歴と背景を源泉に、誰もが、いや、実は自身でも「どうかな?」と思っている対象を絶賛し、これに注力することで、これが「美」なのだという規範を作り上げる…どこの世界でも、レースに参加しているうちはひよっ子、レースを運営する側になって初めて「トップ」なのである。

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ちっぽけな存在論

(注)さて、このブログですが正直なところ製品開発とかだけを書いておりますと更新頻度が低すぎますので、穴埋め(?)のためにコラムというカテゴリーを用意しました。

今後不定期で或る人のコラムを載せていきます。釣りとは全く関係の無い話も多いですが、穴埋めですので気にしないでください。

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